2000年9月15日発行
江戸遺跡研究会
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▼第76回例会の報告
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志村憲一
甲府市教育委員会
平成二年度から10か年計画で行われている第1次整備では、崩壊の危険がある石垣の解体及び復元作業が行われている。今までに石垣間に存在する地中石垣や、17世紀前後の甲府城築城期の石垣の構造解明がなされている。さらに、浅野家家紋の「違い鷹羽」、「五三の桐」の飾り瓦、金箔瓦の検出により、天主閣の有無の論争がなされている。
また、古絵図等の史料を基に、門・土塀の準元作業が進行している。今後、明治初期まで存在していた「稲荷櫓」の復元が行われる予定である。
甲府市北口の新都市拠点整備に伴い、平成6〜7年度にかけてA・B・B西区の3地点合計約6000m2の調査を行った。
A区の南側は柳沢権太夫の屋敷跡、北側は甲府勤番支配になると「山手御役宅」が置かれていた。近世の遺構は、屋敷境と考えられる柵列跡や11号溝・10号溝・水溜状遺構・井戸11基である.また中世と考えられる、近世の軸禄とは異なる、南北方向の23号溝が確認されている。
B区では、「御先手小路」の道賂面と側溝・井戸13基・柵列・埋め桶などが確認された。また明治36年の中央線が開通した当時の柵列と玉石垣の1号溝が検出されている。
B西区は、江戸後期の絵図では、守屋・岡部などの記載が見られ二〜三百俵取りの武家屋敷が存在した。近世の遺構は、井戸10基・地下室遺構が確認されている。明治時代以降の遺構としては、検知石を積んだ溝跡、さらに建物掛からは地鏡具と考えられる、かわらけ2点と木箱に入った法華経の護符が出土している。
内城に入る3つの門の1つ、「山手御門」が存在した場所である。現地表下1〜6mから甲府城築城期の清水曲輪の石垣と堀跡、山手御門に通じる土橋の石垣が確認された。
検出された清水曲輪の石垣は、甲府城築城当初の矢穴が見られる、径1m前後の自然石の割石を使用した石垣である。南北42m、東西10m以上、高さ5.5mであるが、当初は10mほどの高さがあったことが古絵図からうかがえる。土橋は幅約13mあり、当初は自然石の野面積の石垣であったが、布目積の石垣に改修されている。
石垣・土橋のラインは、柳沢時代に作成された大和郡山柳沢文庫所蔵の「楽只堂年録」の絵図に記載された寸法とほとんど一致し、古絵図の正確さが確認された。
ニノ掘と森下小路間に位置した武家屋敷地である。調査区は森下小路側のA区と、ニノ堀側のB区の2地点に別れ、合計1000uの調査を行った。
A区は、中世・近世・近代の遺構が確認されている。多くは近世の遭構であり、森下小路と屋敷境の側溝・井戸10基・溝20条以上・暗渠・埋め桶10基・ピット700基以上が確認された。中世の溝はほとんどが近世の溝等と平行であるため、中世(16世妃)段階のプランが近世の城下町に引き継がれているものと考えられる。
B区からは、甲府城のニノ堀と土塁跡が確認されている。内掘は石垣で築かれているが、ニノ堀は素掘りである。また、中世15世紀段階の井戸1基・溝3条が確認されている。
大西雅広
群馬県埋蔵文化財調査事業団
吉井火打金は江戸時代からその名を知られていたにもかかわらず、実態が不明なままであった。本稿は発表要旨であり、研究史は省略させて頂くが、広瀬二郎氏、高嶋幸男氏、小林 克氏などの業績をもとに、上州吉井を中心とした火打金と火打石の基礎的な調査報告を行うことを目的とする。
群馬県南西部に位置する多野郡吉井町(図1)には中山道脇街道の吉井宿が存在した。この街道沿いの商家を記した文政10年(1827)刊行の『諸国道中商人鑑』に「本家火打所」「吉井入口右側」「中野屋孫三郎」とあり、吉井宿入り口付近右側で火打金を販売していたことがわかる。また、吉井町指定史跡である「燧鍛冶職中野孫三郎一族の墓」から主な俗名と没年をあげると、「中野孫三良:安永二癸巳(1773)」、「中埜孫三郎妻:寛政六甲寅(1794)」「中野麻次郎:享和三癸亥年(1803)」、「中野熊治郎:慶応三卯(1867)」である。墓石下に眠る孫三良は、商人鑑に掲載された孫三郎とは年代が異なり、火打金を生産していた確証はない。また、慶応3年に没した中野熊治郎は、包み紙もしくは引き札版木にみえる「中野屋熊次郎」であろうか。また、版木や商人鑑に掲載された看板には本家や元祖の文字があり、複数の火打所が近接して存在していたことは明白である。
明治期の史料としては、上野国郡村誌に記載された生産量が知られている。吉井宿の東側は、明治15年に合併されるまで川内村であったが、同郡村誌川内村物産の項に火打金の記載はない。しかし、明治8年「以書付奉願預候」の控えによると、「河内村中野孫三郎」が吉井町に住む火打職人の看板と火打の銘を改めるよう吉井町役人に訴えている。この中野孫三郎は、明治6年川内村絵図によれば、吉井宿入り口右側に位置し、商人鑑の中野屋孫三郎と同一店舗であることがわかる。このことは、中野(屋)孫三郎は代々川内村で火打金を生産販売していたことを示しており、安永2年に没した孫三良は先代であった可能性も考えられる。また、この文書には「同業之者」という記載もあり、吉井町では他にも複数の火打職人がいたことも示している。
次に生産量であるが、「明治八年七小区物産下調簿」によれば、明治八年における火打金生産量は、「火燧金大」が吉井町10,523丁、川内村2,500丁。「火打金中」が吉井町38,813丁、川内村3,500丁、「火打金小」が吉井町1,5517丁、川内村なし。総計70,853丁となる。価格は、見本もしくは商品を上に置いたと考えられる価格表によると、「台燧」(板に金を打ちつけた物か)1個7銭。「三角燧」(いわゆるねじり鎌か)1個銭。鎌燧1個5円であった。
吉井火打金は鏨銘や焼印銘を特徴とする。しかし、東京(若しくは江戸か)で生産され始めた「吉井」と「上州吉井」との区別は困難であり、本稿では「吉井火打金」とし、以下に紹介する火打金も両者が混在していると考えられる。
火打金には考古資料と民具資料があるが、鏨銘や焼印銘を問題とする場合、考古資料では鏨銘は錆によって存在自体が確認できないし、木製の台部も限られた環境でしか残らない。そのため、両者が確認できる民具資料の資料化を行い、「吉井火打金」が持つ特徴を把握することが研究の第一段階である。
かつて高嶋氏が指摘した鎹山型に吉井銘が認められないとした点は、今回の資料においても追認され、吉井火打金の大きな特徴といえる。鎹形には幅の狭い弓形を呈するものと幅の広いものの2種が存在する。弓形は現在も製造されており、幅広の鎹形に比して新しい刃部形態であると考えられ、鏨銘を入れる例も鎹形に比して少ない。
鏨銘に関しては「吉井女作」「上州吉井」「上州吉井女作」(図3鏨銘左)「吉井中野女作」「上州吉井中野作」「上州吉井中野屋女作」「上州吉井本家中野屋女作」(図3鏨銘右)などが認められる。これらの銘は広瀬コレクションにも存在し、一般的な鏨銘といえる。金箱コレクションに存在する「上州吉井本家中野屋孫三郎女作」は広瀬コレクションにも認められず、この銘が量的に少ない可能性を示している。鏨銘に関して、字数に年代差を認める考えもあるが、明治8年に銘を改めさせる訴えがあったり、それ以前の文政10年に「本家」を名乗っている製作所があることを考えれば、製作所の違いを考慮する必要があろう。
刻印は鏨とは逆の面に小さく打たれ、鎹形では「中」(図3拡大図上段)、「吉」(図3拡大図下段)、半円形では「大」が認められ、不明瞭ながら捻り鎌形にも打たれていることが明らかとなった。これを群馬県の資料と比較すると、「中」は『諸国道中商人鑑』に掲載されている「中野屋孫三郎」と引札の版木が残る「中野屋熊次郎」が使用しているし、「吉」は「本家請合 上州吉井下町 中野屋孫三郎」と彫られた看板に認められる。刻印が打刻される例は少ないので、今回の資料中に、火打金を販売する際に使用した暖簾に染め抜かれた「本」の刻印は認められない。また、「大」は現在のところ使用者は不明であるが、刻印が鏨銘以上に製作所の分類を行う際に重要となることが明らかとなった。したがって、今後刻印の事例が増加すれば、製作所による鏨銘の違いなどもある程度抽出可能となるであろう。
焼印には「吉井」「吉井本家」「上州吉井」「吉井本家請合」などがある。時代の新しい焼印資料としては、東京の伊勢公一商店でかつて使用されていた焼印(鏝)と『登録通知並ニ領収證』があるが、今回の資料中に同じ焼印は確認されなかった。この焼印は、今後東京の吉井を分類する際に重要である。
吉井町に近い富岡市では、中沢平賀界戸遺跡T‐1号墓、下高瀬上之原遺跡9号土坑、20号土坑から副葬品として、刃部が鎹山形の火打金が各1点出土している(図4)。火打金の年代は、最も新しいものでも18世紀中頃と考えられる。また、吉井町からやや離れた渋川市中村遺跡では、天明3年(1783)の浅間山噴火に伴う泥流下から鎹山形の刃部が1点出土している(図4)。一方鎹形は、前橋市二之宮宮東遺跡の畠跡(N004)と赤堀町五目牛南組遺跡の土坑(221号遺構)から各1点出土している(図4)。遺構の年代は、両者共に共伴遺物から近代と考えられている。県内において台付火打金の出土量は少なく、刃部形態による編年は不可能であるが、群馬県内において、18世紀後半には鎹形火打金が普及していなかったと推測される。
『上野国郡村誌』甘楽郡西野牧村鉱山の項には、「燧石山」が「恩場山」にあり、20年前に発鉱したがすぐに廃鉱となり、明治元年に再興したが、まもなく廃鉱になったこと、石が良質であったことが記されている。この「20年前」というのが弘化2年に出された採掘願いに伴うものを指していると考えられる。この地名は現在の「御場山」と考えられ、現地調査によって石材は玉髄で良質な火打石となること、岩脈が薄く大規模な採鉱は不可能なことを確認した。
ほかに火打石石材としてチャートがあげられるが、筆者が実用可能なことを確認しているのは、桐生市梅田周辺と下仁田町のものである。また、聞き取り調査で最も一般的な石材は、県西部の鏑川流域に分布する石英である。ただし、石英は角が減りやすく、良質な火打石とはいえないが、手軽に入手できる点で普及していたと推測される。下仁田町での聞き取り調査においても「小さい頃火打石を拾っていた」とされる峠でも石英が確認された。
県内の遺跡において火打石が報告された例は非常に少ないが、石材は石英、チャート、瑪瑙である。量的には石英が多いが、遺跡によって石材が異なっているといえ、付近に大規模な火打石産出地がないことを示していると推測される。県内各地の物産をも記した『上野国郡村誌』にも「火打石」の記載は「恩場山」のみであるし、市町村誌類にも記載がないことからも自給レベルの産出であったといえよう。
上州の火打石について、先に大規模産出地がなかったとしたが、この点を再確認するために表1から表4に示した明治期の統計から火打具産出一覧表を作製した。表1において熊谷県の火打石産出量の多さが問題となるが、先に述べたように群馬県内における大規模な産出地は考えにくいが、他の史料にも埼玉県域の産出地が認められない点は今後の課題である。他に火打石を産出する府県は、勧業博覧会目録にその名が認められる例が多く、表に記載される場所は重点的に現地調査を行う必要があろう。
一方、火打金は勧業博覧会目録には現れず、表1に示した地域を中心とした文献、民俗、民具的調査が必要である。
明治期の火打具衰退時期については、『日本帝国統計年鑑』(表4)の明治14年分を最後に火打石の項目が姿を消し、明治13年の『日本産物誌』(表4参照)において「マッチヲ用イルヲ以テ、大ニ燧石ノ、声価ヲ減ゼリ」とあることから、明治10年代前半と考えられる。
江戸時代の上州吉井火打金については、吉井町で火打石と一緒に販売が行われたか否かは不明である。しかし、大規模かつ良質な火打石産出地が近くにないことを考慮すれば単独販売の可能性が高い。江戸では、主に露天で一緒に販売されていたことが指摘されている。露天販売に関しては『守貞謾稿』や寛政、享保頃の香具師に関する文献に、火打と火口(艾)を一緒に販売していたことが記されており、香具師による販売実態も今後の課題である。
明治時代を中心とした民具資料では、群馬県内の資料館所蔵資料の集成を行い、個他県の資料と比較することによって、火打金の地域差を抽出できる可能性がある。また、全国的に民具資料が集成されれば、発生(もしくは渡来)から衰退にいたるまでを研究対象とすることが可能となる。
明治期の記録類では、火打金、火打石共に基礎調査として、表に示した場所をはじめとし、各地の物産取り調べ書類などの明治期文書や、現地調査を行う必要がある。
以上火打具についてのみ述べてきたが、近世の日常的発火法として火鑽についても少し触れておきたい。火鑽(もみぎり)関しては儀礼的側面のみ強調されるが、『蝦夷風俗図式』や『正卜考』(史料参照)には日常使用と考えられる記載がある。今後近世遺跡から出土する火鑽具の集成と出土遺構の性格を分析することによって、火鑽の日常的側面にも注目する必要があろう。
日頃から火打金に関するご教示いただいている指出朋一氏、長谷川寛見氏、入沢雪絵氏には、末筆ながらここに記し、感謝の意といたします。
本稿は、「上州吉井の火打金と火打石」『月刊考古学ジャーナル5月臨時増刊号』417 ニュー・サイエンス社 1997と「民具資料からみた吉井火打ち金」『群馬考古学手帳 10』群馬土器見会 2000を基に、細部を省略し、一部加筆した。
能芝 勉
(財) 京都市埋蔵文化財研究所
京都市内の桃山・江戸時代の遺構・遣物が注目されだしたのは、1970年代に姑まる地下鉄鳥丸線建設工事に伴う発掘調査からである。そのなかで、当初から備前・唐津・美濃瀬戸・信楽などの陶磁器は、その出土量の多さや種類の豊富なことで注目を浴びてきた。なかでも茶屋四郎次郎邸(上京区小川町出水上る1984)・後藤庄三郎邸(鳥丸通三条上る1991)などの豪商跡の発掘調査や、中京区三条通魅屋町東入弁慶市町(1987)・三条通柳馬場東入る中之町(1989)・勉屋町通子条上る下白山町(1996)など、『都記』(寛永元〜3年頃刊)で「せと物や町」と記されている地域で出土した多量の陶磁器は、桃山・江戸初期の都市における「茶陶」の消費と流通を、考古資料から明らかにしてきた。
しかし、その反面、多くの市街地域の発掘調査では、「平安京」の復元と構造解明には一定の研究成果を挙げてきたが、近世都市遺跡としての京都は、未解決の部分を多く残しており、その実体は必ずしも明らかではなかった。そうしたなか90年代に入って、洛央小学校(下京区仏光寺高倉丙入1992)、高倉小学校(中京瞑高倉通六角下る1993)、御所南小学校(中京区柳馬場竹屋町下る五町目1993)など小学校再編に伴う大規模な発掘調査が左京域でおこなわれた.また相前後して、同志社構内逮跡の調査結果による京焼の研究(鈴木1990)(角各1992)や、近世都市構造に関する研究(堀内1991・1992)などが発表され、近世以降の多くの課題や問題に向けて、新たな考古学的資料が提示されるようになった。最近では京埋文研(以下、発掘主体の記されてないものは、京埋文研の調査)により元竹間小学校跡地(中京瞬間之町通竹屋町下る1998 町屋跡)、京都地方・簡易裁判所(中京区柳馬場通丸太町下る1998武家屋敷跡)、京都御所東方公家屋敷街跡(上京区京都御苑3 調査総統中公家屋敷跡)など、江戸期の性格が異なる通跡が調査されており、都市空間の構造解明が期待されている。
近世考古学の分野は江戸・大坂だけでなく、最近では各地域で自覚ましい進展をみせている。そのなかで江戸時代、三都の一つであった京都は「近世考古学にとって、巨大なブラック・ホールである。歴史的重要性と現実の取り扱いの落差は、おそらく世界一だろう」(木立1999)とまでいわれている。平安京以来の土師器の研究は、江戸時代に関しても一定程度進んでいる(鋤柄1994・小森ほか1996)(図−30)。しかし、近世都市遺跡の出土遺物の大半は地域性を越えており、在地性の強い土師器の研究だけで事足りるわけではない。最近、たとえば「京焼」に対する考古学からのアプローチが盛んであるが、京焼の窯跡がいまだに発掘調査されていない現実は、むしろ不思議な気がする。しかし、最近では幕末期の遺構・遺物に関しても、具体的な報告や研究が発表されるようになってきている(定森1995・鈴木1997・木立・1997など)。膨大な発掘調査資料をかかえる、京埋文研の社会的責任も徐々にではあるが、果たされていくものとおもわれる。
寺島孝一
江戸遺跡研究会世話人
丼の中身
高級料理店(八百善)の場合
栗山善四郎『江戸流行料理通』(文政5年−1822)
二編「丼物の部」
春 淡竹 若鮎焼きがらし みる貝 鯛しん藷賽形切り
とこぶしうま煮 わらびの穂 篠むき独活 ごま豆腐四半
花がつお 小煮物あんぱい ちょろぎ もみじおろし
木の実味噌和え のり醤油
夏 赤貝柔らか煮 裂き干鱈 小あじ揚げ出し 生貝柔らか煮
紅粉ぶしかけ 菓子昆布 もぎりなす 新里芋うま煮
さいかちの芽切和え 碁石豆 糸瓜揚げ出し
おろし大根
煮返し醤油
秋 はぜ焼きがらし はまぐりしぐれ煮 串海鼠小口切り太煮 たこ柔らか煮
笹がき大根 紫蘇の実うま煮 人参下馬煮 自然薯うま煮
摘み蒟蒻うま煮 新蓮根うま煮 水がらし 青山椒
花ぶし
冬 千鳥山椒醤油焼き 牡蠣しぐれ煮 小鮒煮びたし さざえ柔らか煮
かしゅう芋 蕗のとううま煮 いちょう大根 若独活山椒味噌和え
柚味噌田楽 青板昆布竹紙
焼き山椒
(一部省略)
三編「四季丼物の部」
篠むき独活 たけのこの穂
賽形切り松露 ちょろぎ
算木切り松茸 仏手柑
木の芽和え からし和え
丸むきむかご 碇防風 黄菊
篠むき蓮根 もずく はじきぶどう
独活芽 湯餅春形切り おろし大根
ごま味噌和え 大根みじん切り 酢醤油
鰻丼の場合
宮川政運『俗事百工起源』(元治〜慶藤)
◎うなぎ飯の始並に蒲焼の事
「うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主大久保今助より始る、此の今助は昔は至て軽き者の方の勤めしが、其身頴悟なる故、何事によらず気転抜群の者故、段々都合宜敷、終に芝居の金主と迄になれども、其身は少しも騎慢の心なく、常に綿服を著し、藁草履にて外見に不拘、されども狂言当り大入毎に直様役者は勿論茶屋始め木戸番、共外芝居出方の者迄残なく祝儀差出す、斯る気質故、実に飛ぶ鳥も落る位の勢なりしと云ふ、前文の如く少しも奢心なく目々自身芝居に出る、此今助常に鰻を好み、飯毎に用ふれども百文より余分に用ひしことなしと、いつも芝居へ取寄用ひし故、焼さましに成しをいとひて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一処に入交ぜ、蓋をなしてジン(よくにる)にて用ひしが、至て風味よろしとて、皆人同じく用ひしが始なりと云ふ、今は何れの鰻屋にても丼うなぎ飯の看板のなき店はなしと云ふ、右故うなぎめしは百文に限りし処、当時は二百文より三百文となりしと或人予に語りぬ、
因に云ふ鰻蒲焼文宇の事、近頃印板傍席と云へる書に日く、菖蒲焼は鰻の日より尾まで竹串を通して塩焼にしたるなり、今の魚田楽の類なり、今は背よりひらき竹串さして焼なり、昔の塩焼きより造にまさりて無双の美味なり、其図、
蒲焼の図、藩の穂に似たる故、蒲焼と云ふ・
右文化元年より当丑年迄六十三年となる、(つづく)
○江戸遺跡研究会編 2000.8 『江戸文化の考古学』 吉川弘文館
内容:江戸時代の化粧(山村博美)・江戸時代の下駄(市田京子)・江戸時代の料理と器具(島崎とみ子)・考古資料から見た江戸時代の料理と器具(堀内秀樹)・日常茶飯事のこと(長佐古真也)・江戸の酒(菅間誠之助)・江戸における日本酒流通と飲酒習慣の変遷(成瀬晃司)・江戸時代のたばこ(谷田有史)・出土遺物から見る江戸の「タバコ」(小川望)・あかりの道具研究の方向(小林克)・江戸時代のあかり(笹尾局之)・暖房具に見る考古資料と民具資料の関係(小林謙一)・民具に見る多摩の暖房具(米川幸子)・江戸時代の銭貨・寛永通宝(増尾富房)・今戸人形論(北原直喜)・掘り出された人形(安芸毬子)
○多摩地域史研究会 2000.6 『多摩地域史研究会第10回大会 埋もれた多摩の産業遺産』
内容:近世末から近代における多摩地域の土器生産(内野正)・江戸後期における青梅の焼物(久保田正寿)・水車に見る用途の移り変わり(小坂克信)・多摩の近代化と煉瓦(清野利明)・多摩川の砂利採取(三村章)
○徳島大学総合科学部歴史学研究室・考古フォーラムくらもと 2000.7 『第2回徳島城下町研究会 四国・淡路の陶磁器−生産と流通1 −』
内容:富田−吉金窯跡−出土の様相(森下友子)・土佐の近世陶磁器窯−尾戸・能茶山窯の製品と普及−(浜田恵子)・四国窯と信楽 焼(稲垣正宏)・平焼の盛衰興亡(野口早苗)・平焼出土資料について(北条ゆうこ)・大谷焼・源内焼(日下正剛)・木津 中山焼(森清治)・摂河泉出土の大谷焼製品の様相(川口宏海)・江戸の四国産陶磁器出土の様相(堀内秀樹)・徳島城下町跡−旧動物園跡発掘調査−(勝浦康守)・1999年度 常三島遺跡の発掘調査成果(橋本達也)
○長浜文化財シンポジウム実行委員会2000.7『シンポジウム近世城下町の諸相 発表資料』
内容:近世城下町の成立過程(小島道裕)・長浜城下町の構造(丸山雄二)・大坂城下町の構造と変遷(松尾信裕)・日本における近世陶磁器の成立(鈴木重治)・長浜下村邸下層(天正13年)出土遺物について(稲垣正宏)・中世末期から近世初頭の土器・陶磁器(森島康雄)・長浜城(森口訓男)・近世小田原城下町の形成(佐々木健策)・木舟城城下町(酒井重洋)・城下町・一乗谷(南洋一郎)・清須城下町(鈴木正貴)・安土城下町(坂田孝彦)・中世都市京都から近世都市への転換(百瀬正恒)・国際貿易都市・堺(森村健一)・博多遺跡群(大庭康時)・近世府内城・城下町の成立について(大野康弘)・中世府内町・横小路町の一括出土遺物資料について (大野康弘)
○宇留野主税2000.3「おらんだ焼物の世界〜上ヶ給遺跡第40地点の調査より〜」『調布の文化財』第27号
○明治大学記念館前遺跡調査団2000.3『明治大学記念館前遺跡』
○豊島区遺跡調査会2000.3『東池袋1』豊島区埋蔵文化財調査報告13
○都立学校遺跡調査会2000.3『菅谷遺跡 東京都荒川区千住製絨所跡 都立荒川工業高校地点』
○『秋季企画展 煎茶とやきもの−江戸・明治の中国趣味−』
会期:2000.9.23〜11.26
会場:愛知県陶磁資料館
電話:0561-84-7474
シンポジウム:「煎茶と陶磁器」
日時:11月4日(土)・5日(日)
会場:愛知県陶磁資料館本館地階講堂
日 時:2000年9月27日(水)18:30〜20:30
演 者:小川望・両角まり
内 容:「武蔵村山市田口窯について
−近現代の土器生産に関する考古学民俗学的様相−」
会 場:江戸東京博物館 学習室
交 通:JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分
問合せ:江戸東京博物館
03-3626-9916(小林・松崎)
東京大学埋蔵文化財調査室
03-5452-5103 (寺島・堀内・成瀬)
江戸遺跡研究会公式サイト
http://www.ao.jpn.org/edo/
【編集後記】第77号をお届けします。