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京都市内の近世遺跡−近年の発掘調査から−

能芝 勉
(財) 京都市埋蔵文化財研究所

1 はじめに

 京都市内の桃山・江戸時代の遺構・遣物が注目されだしたのは、1970年代に姑まる地下鉄鳥丸線建設工事に伴う発掘調査からである。そのなかで、当初から備前・唐津・美濃瀬戸・信楽などの陶磁器は、その出土量の多さや種類の豊富なことで注目を浴びてきた。なかでも茶屋四郎次郎邸(上京区小川町出水上る1984)・後藤庄三郎邸(鳥丸通三条上る1991)などの豪商跡の発掘調査や、中京区三条通魅屋町東入弁慶市町(1987)・三条通柳馬場東入る中之町(1989)・勉屋町通子条上る下白山町(1996)など、『都記』(寛永元〜3年頃刊)で「せと物や町」と記されている地域で出土した多量の陶磁器は、桃山・江戸初期の都市における「茶陶」の消費と流通を、考古資料から明らかにしてきた。

 しかし、その反面、多くの市街地域の発掘調査では、「平安京」の復元と構造解明には一定の研究成果を挙げてきたが、近世都市遺跡としての京都は、未解決の部分を多く残しており、その実体は必ずしも明らかではなかった。そうしたなか90年代に入って、洛央小学校(下京区仏光寺高倉丙入1992)、高倉小学校(中京瞑高倉通六角下る1993)、御所南小学校(中京区柳馬場竹屋町下る五町目1993)など小学校再編に伴う大規模な発掘調査が左京域でおこなわれた.また相前後して、同志社構内逮跡の調査結果による京焼の研究(鈴木1990)(角各1992)や、近世都市構造に関する研究(堀内1991・1992)などが発表され、近世以降の多くの課題や問題に向けて、新たな考古学的資料が提示されるようになった。最近では京埋文研(以下、発掘主体の記されてないものは、京埋文研の調査)により元竹間小学校跡地(中京瞬間之町通竹屋町下る1998 町屋跡)、京都地方・簡易裁判所(中京区柳馬場通丸太町下る1998武家屋敷跡)、京都御所東方公家屋敷街跡(上京区京都御苑3 調査総統中公家屋敷跡)など、江戸期の性格が異なる通跡が調査されており、都市空間の構造解明が期待されている。

2 発掘調査地の概略

(図−1)は90年以降発表された報告書と概要のなかで、近世の遺構・遺物について具体的な記載があるものの調査位置図である。現在のところ京都市域では、近世遺跡だけを対象とする行政発掘調査は行うことが出来ない.平安時代以降、連綿と都市機能を保ち続けてきた平安京域、もしくは他の遺跡指定された地域での調査がほとんどである。したがって、京内でも近世の遺構密度の低い右京域や京外では、通常中世から調査対象面となる。

 近世遺構の調査地点が左京域に集中するのは、(図−2)の寛永期の市街地域復元図からも想定できる。室町時代からの市街地である上京と下京は、秀吉による天正十八年(1590)の市中町割、天正十九年の御土居構築以後も基本的には変らないが、中央の二条城より東側(左京域)に市街地が拡がっている。寺町は鴨川に沿うように南北に長く展開しており、御所の周りは公家屋敷が取り巻いている。武家屋敷は二条城近辺(桃山期の聚楽第の南)に一部集中するが、市中にも散在している。右京域や現在の京都駅周辺の発掘調査では、しばしば江戸時代の耕作地が検出されており、この傾向は江戸後期以後になって、市街地域が御土居の西側にも拡大するようになるまで変らないようである。

 近世の土地利用の在り方が、発掘調査により解明されている地点は少ないが、武家屋敷跡や町屋跡は比較的多く報告されている。寺院跡・城郭といった特殊な地域は少なく、寺院跡では本山は近世以前から現在の地に存在し、他の小寺院は平安京外に寺町を形成しており、発掘対象外である。近年では、後述する方広寺の調査例と西本願寺の調査例(図−3)があるが、基本的には桃山期のものである。以下は近年の報告書・概要、もしくは注目される遺跡については末報告のものも含めて、江戸期の変遷がある程度追えるものを中心に具体的に報告する。

3 寺跡の調査

 数少ない寺跡の調査では、1998年(継続調査中)の方広寺跡で検出された、南門・回廊・石垣跡がある(「方広寺跡」京都国立博物館構内遺跡発掘調査現地説明会資料2 京埋文研1998)。慶長元年(1596)の地震後に、秀頼が慶長四年に再建した建物跡と推定されている(図−6)。資料によると、南門は八足門で桁行中央18尺、東西13.5尺、梁行13.5尺。回廊は複廊で桁・梁行とも12.5尺。出土遺構と方広寺伽藍図(『日本建築史図集』日本建築学会編)から寺域の復元も可能になった(図−4)。出土遺物は瓦がほとんどで、大仏瓦と呼ばれる大振りの瓦(図−5)がみられる。

4 武家屋敷跡の調査

 寛永十四年(1637)の洛中絵図、その他の文献資料も含めて武家屋敷跡と推定されている調査地点には、平安京左京一条三坊(水戸藩邸1966)・平安京左京四条四坊(松山藩松平家1966)・伏見奉行所発掘調査報告1・2(同心屋敷1990・1997)京都市住宅局、伏見城研究会・平安京左京五条三坊八町発掘調査報告(京極若狭守屋敷1997)(財)古代学協会・平安京左京二条四坊十町(松平中務少輔屋敷1998)などがある。

 水戸藩邸の調査では前・中期の井戸・石室・建物・土壙などが検出されており(図−7)、概要によると、井戸は覆屋と敷石を伴う角形の珍しい遺構であるが、遺物の記載がほとんどないため詳細は不明である。

 松山藩松平家の調査では、宅地は検出されなかったが、幕末期の蛤御門の大火(1864)と天明の大火(1788)に対応する火災整理土壙が報告されている(図−8)。多量の被災した瓦とともに、それぞれに一括出土の陶磁器の資料がある。とくに土壙1(天明期)からは乾山銘色絵角皿が3点出土しているが、現在のところ他の遺物に関しては末報告である。

 伏見城下の発掘では、伏見奉行所跡の調査がある(図−9)(伏見奉行所発掘調査報告1・2)。報告書によると、検出された遺構は天保年間(1830〜1843)の同心屋敷跡の可能性が高い建物群で、慶応四年(1868)正月三日の戊辰戦争で炎上、廃絶したものである。長屋風の建物と路地、宅地の裏庭に配された蹲居など、当時の宅地構造がよく理解できる。

 また建物の床下や出入り口付近では、多くの胞衣壷埋納遺構が出土しており興味深い(図−10)。平安京左京五条三坊八町(京極若狭守屋敷1997(財)古代学協会)では若狭国小浜藩の京屋敷北端が調査されている。報告書によれば、屋敷の北端部ということから建物跡などは検出されていないが、井戸・ごみ穴などが検出されている。井戸No.47では17世紀末から18世紀中葉の一括遺物が報告されている(図−11・12)。ただ土師皿などの年代が17世紀後半、肥前磁器が18世紀中葉とされており、通常考え得る編年観とは逆転した齟齬がある。また報告書ではあわせて中近世の土師皿の編年試案も提示されている(千喜良 1997)(図−13)。その中で18世紀以降の土師皿について、近世的土器様式の定着期とし、「形態は固定化し、むしろ変化しないことに意義があるようになる。(中略)16世紀の国産陶器出現によって供膳具としての機能を失い、近世以降は祭祀的性格を残したまま、神社などで使用され、今日に到ることになると言えよう。」と位置付けている。

 町屋跡の発掘調査事例は数多いが、その実態は近年までよくわかっていなかった。しかし、1992〜1994年にかけて行われた御所南小学校の調査(1996年概要)では、総調査面積が3,100m2にのぽり、近世の町屋規模や性格がある程度判明した。また1998年の竹間小学校跡地の調査(2000年度概要報告予定)では、明治2年に小学校が開校されため近現代の撹乱をまぬがれ、江戸期の遺構が良好に保存されていた。ここではこの二つの調査例を中心に、他の遺跡にも触れてみたい。

 御所南小学校の桃山・江戸時代前期の町屋跡は竹屋町通・富小路通に8軒、柳馬場通に3軒、通りに面して確認できる(図−14)。各々の町屋の基本的な構造は、掘立柱もしくは根石建物で、井戸・石組土壙などが各町屋の境界に接するように配され、最も奥まったところには大型の方形土壙がつくられている。この土壙はごみ穴として利用されており、出土遺物は多岐に及ぶ。また、この時期には特定の遺物が多量に出土する土壙がみられる。3区南端の布掘柱列は、寛永十四年(1637)の「洛中絵図」にみられる金森出雲守屋敷の北限屋敷境と推定され、秀吉の天正地割りによる大名屋敷と町屋の混在する姿が確認された。この屋敷境の位置は平安京の宅地割りである、四行八門制の北二・三門の境界とほぽ重なり、平安京以来の宅地割りもなお存続していたものと考えられる。以後、火災や洪水による整地層が4面以上にも及ぶが、町屋の規模は江戸時代を通じて変わることはなく、明治期の地籍図とも大きな違いはみられない。ただ町屋の内部構造は、中期以降は通り庭・土間の整地域と居住域とが明確になる。裏庭の大規模な土壙はみられなくなり、その跡地には土蔵や建物が建つようになる。

 出土遣物は、主要遺構の産地別破片数計測表が報告されている(図−15)。また特徴的な遺物については,個々に研究成果が発表されている(図16〜20)。町屋の性格を特定する遺物としては、柄鏡・刀装具などの鋳型や、るつぽ・羽口・とりべなどの鍛冶道具類から細工師が居住した可能性があり、江戸前期の丹波製擂鉢・壷・平鉢が多量に出土する土壙があることなどから、陶器商人の存在も考えられる。このような職住一致の生活は、ほかの調査地点でも確かめられている。中京区三条通麸屋町東入弁慶石町の調査では、炉跡や作業場状の施設が確認され、中京区坂東屋町(「平安京左京四条四坊四町」京都文化博物館調査研究報告第9集 京都文化博物館 1993)では、御所南小学校と同じく17世紀前半の柄鏡鋳型をはじめとする、鋳造関連の遺物が報告されている。

 竹間小学校の調査では、近世の年代決定の鍵層として認識されている、元治(1864)・天明(1788)・宝永(1708)の火災層を確認している(図−21)。その中で宝永の火災層は、町屋跡の調査では通常焼瓦層を伴わないため、狭い調査では識別困難であった。江戸初期から近代にいたるまで存続した町屋の空間利用の在り方がよく理解できる調査例である(図−22,23)。

 出土遺物はごみ穴353の一括資料を提示しておく。宝永大火による整理土壙で、17世紀末〜18世紀初頭のものである。(担当調査員の内田好昭氏の教示による。)

6  公家屋敷跡

 公家屋敷は同志社構内遺跡で二条家の一部が調査されたことがあるが、大部分の公家屋敷が現在の京都御苑公園内に含まれているため、小規模なものを除いてこれまで発掘調査は行われていなかった。しかし、1997年から京都和風迎賓館施設の建設に伴い、御苑内で東方公家屋敷群跡の発掘調査が開始されている。これまでに約10,000m2を4区画に分けて調査、継続中である。現在までに4回の現地説明会が行われ、概要が報告されている。

 調査地内の公家屋敷の配置は、江戸時代に作成されている種々の絵図から、宝永の大火までは北から「官小路」「千種」「園」「清水谷」「柳原」「櫛笥」となっている。大火以後の内裏造営で屋敷配置は大きく変化し、中筋通と二階町通の間が狭くなる。屋敷地も「富小路」「園」「柳原」「櫛笥」の四軒に整理され、幕末まで継続される。絵図と発掘成果の比較検討はこれからの整理課題であるが、大筋では合致する(図−29)。中筋通と二階町通の検出、能舞台(図−26)・庭園遺構(図−27)の検出など公家町解明の貴重な調査例になるとおもわれる。

 出土遺物は、桃山・江戸初期のものは比較的少ないものの、17世紀半ばからは飛躍的に増大する。また各屋敷地に伴うごみ穴や火災廃棄土壙からは、各時期に対応する一括遺物があり、整理が進めぱ年代指標になるものと期待される。現在までに判明している遺物の特徴をまとめると以下の通りである。

図−28 遺物組成の変遷(%)鈴木 1997より
種別土師器瓦器陶器磁器
年代
16C末60.610.416.92.5
17C末34.60.4530.9433.9
18C末24.10.628.746.6
19C末12.60.455.731.3

  1. 土器・陶磁器類の遺物組成のなかでは、土師器(皿、蓋類)の占める割合が極端に多い。町家を中心とする従来の調査では、17世紀以降土師器類の占める割合が徐々に減少し、19世紀では20%を越えることは少なくなる(図−28)。ところが、たとえば土壙674は、18世紀半ばの比較的一括性の高い大型廃棄土壙であるが、概算でも土師器類の占める割合が80%を越える
  2. 生産に関連する遺物がほとんど出土していない。京都は、近世を通じて常に手工業生産地の中心的な位置を占めており、発掘調査においても、一定の割合で生産に関連する遺物が出土するのが普通である。しかし本調査地では、極めて小量の鋳造関係の遺物を除いて検出されていない。
  3. 幕末・明治初期の遺構から、基準資料になりうる一群の資料が検出された。19世紀代の考古学的な検証は、発掘調査が進んでいないこともあって全体的な解明にはほど遠い。しかし、今回調査した整地3・溝7・井戸354などから一括性の高い遺物群が出土しており注目される。とりわけ井戸354からは、イキリス製陶磁器を含めカラスコップ・ワインボトルなど洋食器が含まれており、西洋文化の受容を物語る資料といって良い。

 本調査地から、中世的要素の多い土師器類が多く検出されたことは、公家衆が古くからの生活習慣を近世においても維持していたことを感じさせる。また公家という階層性を考えると、生産に関連した遺物が少ないことも肯定できる。一方、明治維新前夜に公家衆の果たした役割を考える時、西洋文化の波が公家衆の生活にも及んでいたことを知る資料が出土したことは興味深い。

7 まとめにかえて

 近世考古学の分野は江戸・大坂だけでなく、最近では各地域で自覚ましい進展をみせている。そのなかで江戸時代、三都の一つであった京都は「近世考古学にとって、巨大なブラック・ホールである。歴史的重要性と現実の取り扱いの落差は、おそらく世界一だろう」(木立1999)とまでいわれている。平安京以来の土師器の研究は、江戸時代に関しても一定程度進んでいる(鋤柄1994・小森ほか1996)(図−30)。しかし、近世都市遺跡の出土遺物の大半は地域性を越えており、在地性の強い土師器の研究だけで事足りるわけではない。最近、たとえば「京焼」に対する考古学からのアプローチが盛んであるが、京焼の窯跡がいまだに発掘調査されていない現実は、むしろ不思議な気がする。しかし、最近では幕末期の遺構・遺物に関しても、具体的な報告や研究が発表されるようになってきている(定森1995・鈴木1997・木立・1997など)。膨大な発掘調査資料をかかえる、京埋文研の社会的責任も徐々にではあるが、果たされていくものとおもわれる。

引用・参考文献


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