2000年2月29日発行
江戸遺跡研究会
▼第73回例会の報告 [写真図版]
|
追川吉生
東京大学埋蔵文化財調査室
東京大学本郷キャンパスは文京区本郷7丁目に位置する。大学構内は武蔵野台地の東端である本郷台に立地している。本郷台は北西から南東方向へ向けて傾斜しているが、本郷キャンパスはその傾斜変換点に当たる。周辺にはキャンパス内の三四郎池をはじめ、現在では既に埋没してしまった湧水と、それらがつくりだす沢筋が認められ、旧石器時代から奈良・平安時代までの遺跡が認められ、本学構内も本郷台遺跡群として周知の遺跡に認知されている。また弥生土器の標式遺跡ともなった向ヶ丘貝塚は特に学史的に著名な遺跡である。
本学構内にあたる場所には江戸時代、加賀藩邸が存在したことは、三四郎池や赤門とともによく知られている。本学構内には加賀藩の他に、大聖寺藩・富山藩・講安寺の敷地が含まれている。1983年以降本学では、校舎建設等で行われる工事に先だって、当該期の遺跡に対する発掘調査を行ってきた(図1)。
前節で言及したように、本学では校舎等の建設工事に先立って埋蔵文化財に対する発掘調査を実施している。大学当局から総合研究棟を経済学部校舎南側に建設するに際し,当該地区の埋蔵文化財の有無に関する照会があった。現存する絵図面からは、当該地区が加賀藩上屋敷の御殿空間であることが知られており、後代の建造物による破壊を受けないでいれば、それらに伴う遺跡が検出されることが予想された。そこで同年1月6日より1月8日までの間に試掘調査を実施し、建設予定地における埋蔵文化財の有無及び密度を確認した。調査面積約28m2の試掘調査において、近代以降の盛り土の下には、江戸時代の遺物包含層が確認され、石組みや礎石、生活面と考えられる硬化面を確認した。そこで5月から11月まで本調査を実施した。
調査範囲は1026m2である。これを東側と西側の2つの調査区に分けて本調査を実施した。前者は509m2、後者は518m2である。両調査区とも近世の生活面は2面であり、上からA面・B面と呼称した。またグリッド配置は医学部研究棟の調査から継続した番号を付した。
・建物礎石群
A面からは写真1のような礎石が検出された。これらは東西方向に4列の配置が認められ、それぞれの幅は1.8mであった。中央部を調査実施直前まで調査区に植えられていた植木の植栽痕によって破壊されていたが、幅1.8mという1間に相当する間隔が認められることから、一連の建物の基礎であることがわかる。礎石は直径40〜50cmの楕円形を呈する礫が用いられている。この礫の下に15cm前後のやや小さな礫が4〜6個体据えられており、更にその下には直径50cm前後の礫が認められる。この最下底の礫が礎石にかかる重量を支える根石であると思われる。しかしこのような構成の礎石が存在する一方、根石を有さない構成の礎石も複数認められる。土層断面の観察によれば、これら根石を有さない礎石の場合、上段の石の下の土層堆積はV字状に硬化した層が認められ、突き固められたことが想定される。出土遺物は少ないものの、わずかに19世紀代であることがわかる。
・SX103
調査区の南側に東西方向に延びる石組み遺構である(写真2)。本遺構は西側調査区においても認めらる。南北幅はおよそ1.2mである。本遺構は概ね3層構造であり、上段は直径20〜30cmの礫や10〜20cmの板状を呈する破砕礫によって構成されている。中段は上段と同程度の礫があり、下段は上段よりもやや大きめな石がいくつか据えられている。建物礎石群同様、共伴遺物はほとんど検出されなかった。
・SU107
南北5m、東西2.2m、深さ2.3mの地下室である(写真3)。地下室は周囲を1辺約30cmの四角錐を呈する、鑿によって面取りされた見地石で組まれている。見地石は緑色で凝灰岩系の石材を用いている。この間知石の裏には同質の破砕礫が裏込めとして用いられている。上半分は検出時には既に破壊されていて、天井部分や出入り口の構造は詳らかでない。遺構は底部まで大量の焼土と焼けた瓦が含まれていた。床面は張り床状に構築されており、そこからムシロが検出された。内部には地下室の南よりの部分に、南北0.8m、東西0.8m、深さ1.2mの小地下室が更に設けられている。この小地下室も石で組まれているが、地下室本体とは異なる、軟質で白色を呈する石材が用いられている。上部の石には4辺に窪みが認められ、これは蓋掛けの為の加工と考えられる。前述したように出入り口の構造は不明であるが、写真にもあるように間知石を用いた階段が認められ、出入り口の場所は地下室の北側であることが推定される。この石段の掘り方は、石の設置を容易にするように階段状に掘り込まれたローム層で、石段との間には破砕礫が挟まれている。また石段の付近には柱穴が認められるが、これは石段自体の滑落を防ぐためのものであると思われる。
遺物は19世紀の陶磁器・土器が出土した。特に裏側に墨書きで「御膳所」と書かれた瀬戸もしくは美濃製の陶器(写真4)や、「御末」と釘書きされた肥前製磁器(写真5)が注目されよう。
・SK110
南北2.0m、東西1.5mの方形を呈する遺構である(写真6)。覆土には大量の陶磁器・土器の他に貝・魚骨・獣骨も出土するゴミ穴である。遺物はSK107同様、19世紀代である。特に写真7のような葵紋の軒丸瓦が1点出土した。
・SK122
南北0.7m、東西1.5m、深さ0.5mの方形を呈する遺構である。遺構の中央部は赤色に硬化しており、1本の溝によって東西に仕切られる。東側には板材と漆喰が検出され、周囲の壁には板が張られていた痕跡が認められる。便所跡である。
・SK162
調査区北東隅にある縦1m、横0.2mの方形に整形された石がおよそ3m間隔で東西に2本並列する遺構である(写真8)。この石と石との間は一段低くなっており、石の南北には北に13基、南に8基の柱穴を伴う。
・SD200
東西方向にのびる溝状遺構である。溝の底部には30cm程度の方形を呈し、上面が平坦な石が等間隔に並んでいる。この平石の上には柱痕が認められる。周囲に本遺構と対になる遺構が存在しないことから、塀の基礎と考えられる。
前述のようにSX103は西側の調査区でも検出されている。それ以外では数遺構が検出されているが、遺物量もごく少量であり、今回は省略する。
・SU268
南北5m、東西6.5m、深さ3.5mの地下室である(写真9)。この地下室には、写真にみられるように周囲に礎石が残されていた。地下室は調査区の東西にまたがるような位置にあったが、特に東側調査区では土を掘り込んだ階段の部分に土留めの為に用いられた板が板材が残存していた。出土した陶磁器は17世紀後半である。写真にあるように床面に礎石が配されていることから、この地下室が柱で天井を支えていた構造であったことがわかる。
・SK505
南北5.0m、東西2.0m、深さ0.3mの長楕円形を呈する遺構である(写真10)。多量の炭化物と共におよそ20点の金箔瓦が含まれていた(写真11)。陶磁器・土器は検出されていない。金箔瓦は梅鉢紋の軒丸瓦を主体に、軒平瓦・鬼瓦が認められる。いずれも瓦の表面に漆を塗布し、そこに金箔を施しているが、鬼瓦のみは表面の凸部に木製のソケットを嵌め込み、その上に漆と金箔を施していることが観察された。後者の方がより表面に形状がしっかりと表れることから、軒丸・軒平瓦に比べて大振りな鬼瓦にはこのような製作技法が採られたと考えられる。覆土には焼土は含まれておらず、瓦にも焼けた痕跡は認められないことから、本遺構出土の金箔瓦が、屋敷の火災による消失に伴う一括廃棄ではないことがうかがえる。
・SD428
南北13m、東西0.7m、深さ2mの溝である(写真12)。調査区をほぼ南北に通っており、調査区も東西両方にまたがっている。錆びた鉄釘が大量に出土し、また調査区南側からは木樋が検出された上水溝である。木樋を取り上げると、地山に南北方向のクラックが認められた。地震に伴う地割れ痕と考えられる。
・SD449
南北13m、東西0.8m、深さ1.2〜1.5mの溝で一部SD428と切り合い関係にある。新旧関係は、SD449をSD428が切っているので、後者の方が新しい。溝の底面には1辺約30cm、高さ約10cm の石が配置されている。
・SK641・642
円形を呈する採土抗である(写真13右下)。覆土の上層は本地点には他に見られない黒色土で、多くの貝殻を含む。遺物は肥前製磁器は伴わなず、本地点中最も古い時期に該当する。遺物としては他に瀬戸もしくは美濃製の天目碗やカワラケ、あるいは中国製の磁器がある。
発掘調査の整理作業は現在着手したばかりであり、遺構や遺物の分析には今しばらく時間を要する。そこでここでは前項で区分したA面およびB面毎に課題となった事柄をあげることとしたい。
A面では溶姫の御殿空間を調査し、それに伴う遺構も検出できたことが大きな成果としてあげられる。現存する絵図面と調査地点の対比によると、本調査地点は幕末期に溶姫の御殿 (「御住居」) であることがうかがえる。この御殿は加賀藩13代藩主・前田斉秦のもとに入輿することとなった11代将軍・徳川家斉の21女、溶姫の御殿として、1825(文政8)年に建てられたものである。この御殿の門が赤門であることは広く知られている。調査区南側に東西方向にのびた石組みは、今後の検討がなお必要であるものの、表御殿との境界であった可能性も否めない。更に絵図面との照合を進めていくと、当該地が膳所であったことがうかがえる。膳所の周辺には、おそらく井戸を示していると思われる円形を呈する記号が付されていたが、本調査では井戸は検出されなかった。しかし同時にSU107のような規模の大きな遺構についても当該地図には記載されていない。この点は本遺構が地下にあるということを鑑みれば、むしろ自然なことであろう。前述したように本遺構からは、裏側に墨書きで「御膳所」と書かれた瀬戸もしくは美濃製の陶器や、釘書きで「御末」と記された肥前製磁器が出土している。これらの遺物は、絵図面との対比の上でも注目される資料である。ちなみに「御末」とは女中のランクの一種で、「御犬子供」に次いで下から2番目の女中のことである。
それでは一体、このように切り石で組まれた地下室の用途は一体どのようなものであったのだろうか。本遺構の階段が石段であることを併せて考えれば、頻繁な出入りも予想される。ここではその可能性の1つとして食料貯蔵庫を指摘しておきたい。なお本遺構の覆土に大量に含まれていた焼けた瓦や土は、明治元年の本郷邸の火災によるものであろう。本遺構の南側で検出されたSK110には大量の食物残滓が含まれており、またSU107周辺にもアワビなどの貝殻が認められていることからも、溶姫御殿の中でも特に膳所に関係する機能を有して いたことがうかがえよう。
絵図面との比較といった点では、SK162も看過できない遺構である。これのみでは一体どのような遺構であるか想像も付きかねる。そこで本遺構付近の絵図面をみてみると、それと直交した南北方向に廊下が走っていることが認められる。とするならば、東西の切り石を挟んで、中央が約3mにわたって一段低くなっている本遺構は、御殿の廊下をくぐり抜ける立体交差点であったことが考えられよう。絵図面においてすら建物を縦横に走る廊下が描かれている上に、実際にはこのような日常用の通路も設けられていたようであり、実際の御殿空間の様相は更に入り組んだものであったのかも知れない。
この御殿空間の構造を考えるうえでは、調査区東側から検出された礎石が注目されよう。1間の幅で検出された礎石には2つの構造が認められる。第1の構造は、礎石の下に破砕礫を敷き、さらにその下に根石を据えるものである。一方、第2の構造にはこのような根石が認められず、礎石の下の土層に、V字状に硬化した層が認められる構造をとるものである。おそらくこのV字状に硬化した層というのは、建造時に突き固めたことによって生じたものであろう。礎石構造に2つの種類がある点については、今後どのように検討課題としていけばよいだろうか。ここでは[1] 配列上の偏りの有無、[2] 共伴遺物からの時期差といった2つの仮説を挙げておこう。
[1] について、それぞれの構造をもつ礎石毎に配列するならば、あるいは[2] においてそれぞれの構造をもつ礎石毎に明確な時期差が認められるならば、これらは別棟か別時期の建造物であるという可能性がある。瓦葺きの御殿としては[1] の仮説としてあげた礎石構造の方がより適していると考えられるが、今後の分析を待つこととしたい。なお付け加えるならば、東側の調査区から検出されたSK122は、A面の遺構でおそらく溶姫御殿に伴うトイレであるが、この遺構の検出された地点は礎石列の南端付近であった。屋敷の中でもトイレが外側に設けられていたと考えるならば、本遺構の検出地点が礎石列の外れにあることも興味深い。また、更に南側にはSX103が検出されているが、この東西方向にのびる石組みは溶姫御殿を画する塀の基礎であったのかも知れな い。
杉森哲也の研究によれば、溶姫御殿には主な女中100人がおり、更にその付き人などで約300人の女中が暮らしていたという(杉森1990)。本地点の調査によって、いわゆる奥御殿である溶姫御殿の様相の一端をうかがい知ることが出来た点は、本郷キャンパスにおける加賀藩邸全体の発掘調査を進める上でも、大きな知見を加えることができたと思われる。
さて当該地点と絵図面の比較を更に進めてみよう。すると調査区西側には富士山と記された部分があることがわかる。これは旧富士権現である。富士権現自体は,当地に前田家屋敷ができたため、駒込の富士社に遷座したという。しかしながら富士山だけは残り、明治時代以降は椿山の名称で呼ばれていた。実にこの富士山は、1964(昭和39)年に経済学部が新築されたおりに取り壊されるまで、本郷キャンパスに残っていたのである。今回の調査では、調査区の西側が一部富士山にかかる位置関係にあったが、富士山もしくは富士権現に関連する遺構は認められなかった。この富士山がいつごろ築造されたかについては、前田家屋敷が出来た際、駒込に富士社が移転したといった以外は詳らかではない。しかし調査区の西端から検出されたB面のSK641,642の2遺構の覆土である黒色土層が、富士山築造に伴う可能性もあろう。今後更に検討を要するが、もしこれらの遺構が富士山に関連するものであるならば、当該遺構は前述したように肥前製磁器を伴わないので、富士山の築造も17世紀前半ということになろう。周知のように本郷キャンパスの加賀藩邸は、1616年から1682年までが下屋敷、以後が上屋敷として利用されていた。富士山の築造は下屋敷時代のことであるかもしれない。もっとも加賀藩下屋敷の詳細な絵図面は残っていないため、富士山ばかりでなく屋敷全体についても、上屋敷のように遺構と絵図面との対比はできないのが現状である。
そういったなかで、本調査における下屋敷時代の遺構として注目されるのがSK505である。近世の遺跡から出土する金箔瓦はおしなべて17世紀代であるが、この遺構もそれに当たる。出土した金箔瓦が本郷邸のどの部分の屋敷に葺かれていたかは判明しないが、前項でも述べたように、本遺構出土の金箔瓦は火災による一括廃棄ではない。火災による屋敷の消失でないのに、このように瓦を廃棄する、即ち屋敷を取り壊すということが、どのような歴史的背景において行われたかは今後の課題であろう。周知のとおり下屋敷時代の本郷邸には、将軍御成が行われたが、それに関連する御殿であったのだろうか。しかし前述のように、金箔瓦の出土する時期は他の遺跡においても17世紀代であることから、御成御殿と即結びつけるのは尚早であろう。建築様式の大きな変化であったのか、あるいは何等かの規制があったのか、多方面からの検討を加える必要がある。いずれにせよ、SK505から出土した多量の金箔瓦によって、加賀藩下屋敷が宮崎勝美が述べているように、「呼称は下屋敷であっても、相当な殿舎の構え」があったこと(宮崎1990)がうかがえよう。このことは加賀藩邸の時間的な変遷を解明する上でも貴重な成果である。
本郷キャンパス内の発掘調査は、従来、御殿空間以外の調査区が多かった。そのような中で今回の発掘調査によって、下屋敷・上屋敷ともに御殿空間を対象とした調査が行えたことは、藩邸内の土地利用の様相を明らかにしていく上でも、藩邸内の生活を考古学的に復原していく上にも有効な事例を加えることができたといえよう。今後の整理作業によって上記に列挙した課題を明らかにしていく所存である。
杉森哲也 1990「文献・絵図史料から見た加賀藩本郷邸」『山上会館・御殿下記念館地点』
宮崎勝美 1990「加賀本郷邸とその周辺」『山上会館・御殿下記念館地点』
鳥越 多工摩
都内遺跡調査会
1月29日・30日、江戸東京博物館において、「江戸と国元」をテーマとして今年度の大会が開催された。
江戸遺跡の主たる調査対象は大名屋敷をはじめとする武家地である。また近年では、大名のお膝元の城郭や城下町が調査されてきている。しかし、東京にあって地方の近世遺跡の様相を知る機会は少ない。今回の発表は当然に東京以外の近世遺跡についての発表が行われており、各地の情報を知ることのできるいい機会であった。
江戸と国元の関係のなかでひとつ思い浮かぶのが流通の問題であろう。参勤交代などに伴う人の移動であり、技術の移動である。情報の移動でもある。もちろん、これらの移動は江戸と国元の間のみならず、それぞれにおいて別地域との交流もあっただろう。その範囲・対象は複雑に絡み合っていようが、そういうやりとりの中で伝えられたものは数知れない。モノとして触れられるものだけではなく、例えば建築の基準尺度の問題などは興味深いものがある。
今回発表された遺構の中には、京間を基準尺度として採用しているものがある。たとえば、尾張藩上屋敷跡遺跡の表門関連遺構は京間を採用していると考えられている。名古屋城三の丸では、「元禄十年 御城絵図」から、17世紀末には京間が基準尺度となったと考えられている。また、京間とそれ以外の尺度を併用している事例もある。仙台においては、柱間寸法の統一されているものと統一されていないものとがあった。上方の大工が建てたものと、地元の大工が建てたものとの違いらしい。金沢にあっては、京間と越前間とが併用されているようである。同じような事例は他にもあるだろう。
そこで、いつ、どのような建物に京間を採用したのかという疑問がでてくる。それこそ、すべての建物を京間で統一してもかまわなかったはずである。独自の基準尺度が成立していた場合、京間を採用しないという選択肢もあったはずである。どの基準尺度を採用するかによって、都市の景観はかなり変わってくる。
基準尺度の問題でもうひとつ思い浮かぶのは、その尺度がいつ成立したのかという問題である。例えば、江戸間はいつ江戸間として認識されたのだろうか。京間は江戸間にどのような影響を与えたのか。江戸間成立以前の、例えば中世に使われていた尺度の問題とも関連して興味のでてくるところである。
なお討論会で、近世遺構を計測した場合に、メートル法のみならず尺貫法による計測も行い、それを報告書に併記したらという意見が出された。これはひとつの盲点であろう。
世話人
堀内秀樹
江戸遺跡研究会第13回大会は、「江戸と国元」のテーマのもと、江戸東京博物館にて去る1月29・30日の両日にわたっておこなわれた。
これは題目の示すとおり大きな意味での空間論に関する議論であり、広範な議論ができる題材であるとともに、考古資料の中でアプローチする上での難しさも多分に含まれているテーマであると思われる。そこで、考古学からの各発表者には比較する上での共通のフォーマットで遺構、遺物のデータを呈示してもらい、それを材料に検討を行うことをお願いした。各発表者が「宿題」と言っていたものである。その共通のフォーマットは、遺構では[1] 建物の基準尺度、[2] 地域[江戸・国元]特有のものと考えている遺構、遺物では[1] 陶磁器・土器、[2] 石、[3] 瓦の様相などである。具体的には基準尺度では建物の性格と基準尺度、建物の年代と基準尺度、遺構は江戸の地下室、桶を使用した井戸など、陶磁器では主要生産地の組成、在地窯の出土状況、土器では主要器種の出土状況、石では石垣などの石の産地および使用状況、瓦では刻印、本瓦から桟瓦への移行時期などである。発表者の作成した資料には、このあたりのデータが呈示されており、様々な切り口から議論ができたように思われるが、二日目の討論の時間が充分とれなかったことが残念である。
今回の大会では、いくつかの例が挙がり、江戸と国元との影響・交流が指摘されたが、これを少し整理してみたい。国元と江戸の影響・交流も様々なレベルで意識的、あるいは無意識的に行われていたと考えられる。まず、生活様式レベルでの影響関係があろう。これは、「国元(江戸)での生活様式が江戸藩邸(国元)の中に持ち込まれているのか」ということで、本大会のテーマである「江戸と国元」の重要な柱となる問題点であろう。考古資料から考えるには、江戸もしくは国元の地域相の確認→地域間の比較という過程を踏まえて行うのが妥当である。しかし、地域相は年代、階層など種々の要素で変化するものと考えられ、多地点間の比較からその地域での典型的な様相を把握することが重要なポイントとなるであろう。また、このような手続きの中で復元された類似した様相を持つ範囲が考古学的にみられる地域的な文化(経済)圏であると考えられる。今回の発表の中にも注目すべき発言がみられた。日下氏報告の徳島城下とその周辺において、18世紀以降に頻度が高く出土する注連縄文碗が、当該地における正月行事に関連した器種であること。会場では徳島藩江戸屋敷である丸ノ内三丁目遺跡の状況などの話はなかったが、こうした遺物の出土状況(同調査報告書では確認できなかった)の比較は江戸藩邸の中で行われた国元での習慣の頻度を示す資料となろう。また、佐藤氏報告の名古屋城下での瀬戸・美濃の磁器出現直後の増加状況−特に端反碗の−は、江戸より緩慢で、江戸がこうした器種を用いて行ったおそらく「飲む」に関係した行為が、江戸と名古屋で普遍化する時期にタイムラグ有する可能性を示唆するデータとなろう。さらに、尾張藩は国元に大窯業地を抱え、江戸藩邸が江戸遺跡の他の武家地との比較対象として取り上げるべき性格を備えている。
次に、ある目的の中での影響関係である。前述のものが日常的とするなら、これは非日常的ともいえよう。これは、増山氏、小川氏報告の加賀藩への御成や宮崎氏報告の屋敷の新築に伴う瓦の調査、注文など突発的なイベントの中で行われた交流である。考古資料を用いて考える際に、大量廃棄など現象面で際だった出土状況を示すことが多く、影響関係を把握しやすい。
最後に、贈答、土産など個人レベルで行われたであろうものの交流・移動がある。特に参勤交代がある大名の場合、江戸土産などを国元に残している家族などに購入する事例は日記などの文献類に多く認められる。小川氏、佐藤氏、小林氏、日下氏などが報告した土器に認められる体部下半に斜格子状のタタキが認められる焼塩壺や「白井善次郎」刻印の鉢形土器など土器という胎質が持つ性格や量的僅少性などから商業的な流通とは異なると推定できる製品に関してはこうした理解もあろう。
当日の討論の中では、建物の基準尺度、瓦についての議論が中心であったため、「もの」それも生活に関わる諸相を議論するのにポイントとなるべき土器や陶磁器などの一般的な生活用品を対象とした比較の時間がもてなかった。これらの分析から議論できることは、多岐にわたると考えており、本稿のような分量で追補できるものではない。大会最後の古泉氏の挨拶の通りこの大会を嚆矢として、いろいろな議論を展開できればと考えている。本稿は大会を企画した一人の私見であるが、会員の皆様から大会や本稿に対するご意見などお寄せいただき、今後のこうした議論に役立てていきたいと考えている。
◎第13回大会「江戸と国元」発表要旨の差し替え
宮崎勝美氏の発表要旨が以下のように差し替えになりました。
江戸遺跡研究会では、このたび公式ホームページを開設いたしました。江戸遺跡研究会例会・大会の案内、江戸遺跡・近世考古学関連の特展・見学会などのイベント情報、文献情報、過去の例会の略報などを常時提供していく予定でおります。会員の皆様には発掘調査、文献など近世考古学関連の情報を寄せていただきたくお願いいたします。
アドレス http://www.ao.jpn.org/edo/
日 時 | :1999年3月15日(水)18:30〜 |
演 題 | :近世における亜鉛輸入と真鍮製造 −東大出土キセルの材質分析から− |
報 告 | :原 祐一氏(東京大学埋蔵文化財調査室) |
会 場 | :江戸東京博物館 第2学習室(大階段北側の通路を東に進み、駐車場の脇を直進し、左側の夜間入口より入る) |
交 通 | :JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分 |
問合せ | :江戸東京博物館 03-3626-9917(松崎) |
東京大学埋蔵文化財調査室〔新電話番号〕03-5452-5103(寺島・堀内・成瀬) |
【編集後記】第74号をお届けします。