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◎第13回大会「江戸と国元」発表要旨の差し替え
 宮崎勝美氏の発表要旨が以下のように差し替えになりました。

大名屋敷の作事・普請と江戸遺跡


宮崎勝美
東京大学史料編纂所

はじめに

 江戸の大名屋敷は、中には近世を通じてさほど大きな変化を経ずに幕末に至ったものもあるが、多くはたびたび作事(建築工事)・普請(土木工事)の手が加えられた。それは屋敷地の移動・拡大・縮小、火災・地震などの災害からの復旧、将軍を迎えるための御成御殿や入輿する夫人のための奥御殿の新改築、増加する江戸詰藩士を収容する長屋の増築等々、さまざまな要因によるものであった。

 大規模な作事・普請は藩にとって一大事業であった。数万両から時には数十万両にも及ぶ巨額の費用をいかにして捻出するのか、大量の資材と人員はどこから調達するのか、またそれらを指揮し完遂するための実務組織をどのように構築するのか、とにかく多くの難しい課題を伴なうものであった。とくに藩主自身の居所である上屋敷が火災で焼失した場合には、対外的な交際・対面上、すみやかに仮殿舎を建築するとともに、時をおかず本殿舎を新築しなければならなかったから、それは江戸藩庁だけではなく国元を含めた藩全体の最優先課題となった。

 そうした江戸藩邸の作事・普請については、各藩の藩政史料の中に残された絵図や文献史料から断片的ながらそのありようを窺い知ることができる。本報告では、それらのうち作事記録と呼ばれる大規模作事に関する一件史料の中から、江戸遺跡の調査・研究に関係すると思われる記事を拾い出して紹介していくことにしたい。

1.明和9年行人坂大火と萩藩江戸屋敷の作事

 萩藩(長州藩、毛利家)の藩政史料である毛利家文庫(山口県文書館所蔵)には十数点の江戸藩邸作事記録が残されており、中でも明和9年(1772)大火類焼後における上屋敷(外桜田)・中屋敷(外桜田新橋内)・下屋敷(麻布龍土)(1)の殿舎・長屋等の再建に関する記録が比較的充実している。

 明和9年2月29日目黒行人坂大円寺から発生した火災は、江戸中心部に延焼し、浅草・千住まで及んで翌晦日鎮火した。のちに行人坂の大火と呼ばれるこの火災で、萩藩は上屋敷・中屋敷のほとんどすべての施設を失った。藩はまず麻布下屋敷に殿舎その他の住居・施設を急ぎ増築して、藩主家族や江戸詰藩士を移住させるとともに、ただちに屋敷の再建に取りかかった。この作事は翌安永2年(1773)4月に一応終了するが、上・中屋敷の殿舎はその時点までには再建できず、安永9年(1780)に再度着工、天明3年(1783)に至ってようやく完成した。(以下、大火直後から翌年までの第一次作事を明和作事、安永9年に始まる第二次作事を安永作事を呼ぶことにする。)

 毛利家文庫には、明和作事の作事記録が3点、安永作事の作事記録が2点残されている(2)。それらによると明和作事の各屋敷の建設面積は、桜田上屋敷719坪余、新橋中屋敷817坪、麻布下屋敷4630坪余であった。上屋敷は表長屋など外囲いの部分のみの緊急工事だけであり、下屋敷に臨時の殿舎・長屋等を集中的に建設したことが、この数字にも現れている。これに対し安永作事は、上屋敷3661坪余、中屋敷323坪余で、これによってようやく上屋敷の殿舎が一応の復旧を見たのである。

 本格的な殿舎再建に10年以上の年月を要した主な理由は財政難であった。上・中屋敷の本格的な復旧を先伸ばしにした明和作事でさえ、総工費は銀4554貫937匁(金1両=銀60匁として7万5915両余)を要している。萩藩は36万9000石の大藩であり、しかも宝暦検地(1761〜64年)以後は内高89万石にも及んでいたというが(3)、この負担はやはり甚大であり、御用達町人からの借銀と家中からの禄米借上げを重ねても十分な資金を調達できなかったのである。

 作事の実施形態に触れておくと、明和作事・安永作事とも、藩直営工事と請負工事とによって構成されている。請負業者のリストには、江戸の大工・鳶・左官・瓦師らの職人、あるいはそれらを束ねる役割を果たしていたと思われる町人が多数記載されているが、萩・山口・三田尻など国元の大工・木挽・石屋らの職人の名も少なからず含まれている。明和作事の場合、三屋敷作事の請負総額は金2万5186両・銀113貫713匁余であった(同上レートで換算して金2万7081両余)。これは総工費の35.7%に当たる。直営と請負の区分にはそれぞれ理由や基準があったのであろうが、これについては今後の分析を待たねばならない。御殿部分でも請負工事が行われており、少なくとも御殿空間・詰人空間という単純な区分でないことは確かである。   

2.明和作事記録より

(1)国元からの資材供給

 毛利家文庫中に3点伝存している明和作事記録のうち「江戸三御屋敷新御作事記録」は、作事の全体を把握するのに便利な史料である。この記録は大火の発生・類焼の事実から起筆して、国元からの作事役人・諸職人の出府、作事役人の組織・任命、新殿舎の設計、作事の工程、手斧初・柱立・地鎮・上棟などの建築儀礼、資材・資金の調達、請負工事の内容、そして建築面積・経費の書上げなどを具体的に書き上げている。

 記述は項目ごとに精粗があり、そもそもこの史料に書きとめられていない事柄も多いが、材木・瓦・縄・釘・赤土などの資材を国元から江戸に廻漕した記録は詳細で、建築資材の流通・調達の実際を伝える素材として貴重である。次にその原文の一部をサンプルとして掲げておこう。

【史料1】「江戸三御屋敷新御作事記録」(カッコ内は引用者註、以下同じ。)
一、三間梁拾間之御蔵壱棟切組、 但、御木屋方ニ而整之分、
一、三間梁四間之御蔵壱棟切組、 但、同断、
一、松板百坪          但、六歩板、   
一、松角物三拾九挺
      此才千五拾壱才         
    内
   弐間半六寸角拾丁
   壱間八九角九挺
   壱間九々角四挺
   壱間九壱角弐挺
   壱間尺角拾四挺
一、五寸釘壱万五千七百本
一、四寸釘三千六百本
一、三寸釘四千七百五拾本
一、弐寸釘拾弐万五千本
一、壱寸五歩釘三万八千三百五拾本
一、五歩釘八万千七百本
一、檜皮三寸釘三千本
一、平瓦弐千四百六拾五枚
一、丸瓦弐千五拾五枚
一、唐草瓦弐百四拾枚
一、巴瓦弐百四拾枚
一、中縄拾七束
一、しで藁拾七荷
     右、萩より御仕送リ之分、
             船頭神戸浦
                   清左衛門船
             上乗り
                地方与
                   市郎左衛門
                幸坂組
                   二郎右衛門
以上、

 国元からの資材は、前後27艘の船で輸送されており、上に引いたのがそのうちの1艘分(8艘目)である。作事の最初にまず必要なのは材木と釘である。材木は各樹種・規格に分けて数量が記録されているが、上の史料に見えるように土蔵や藩士の長屋などは国元で部材を切組み、解体・輸送して江戸で再度組み立てるという方法も取られている。

 釘の数量も非常に多い。全体を集計すると、5寸釘76,300本、4寸釘100,400本、3寸釘108,150本、2寸釘871,000本、1寸5分釘343,650本、5分釘424,300本、檜皮3寸5分釘80,000本、檜皮3寸釘3,000本、合計2,006,800本に達している。次に見る大坂での資材調達の記事の中には、銅瓦用の(7分〜1寸)計98,300本があるが、通常の釘の書上げは見られない。江戸その他での買入れ数量は不明であるが、釘は主として国元で調達されたのではないかと推測される。

 この他資材の種類は多様であるが、以下では江戸遺跡で多数出土している瓦に焦点を当ててみていくことにする。国元から輸送された瓦の種類と数量は、下記の通りである。

本瓦平瓦平唐草瓦唐草瓦丸瓦巴瓦桟瓦桟瓦巴付備考
76,345 239 1,970 1,468 小郡才判焼立之分
8 2,465 2402,055240  萩より御仕送り之分
153,975   1,280 2,470 小郡之分
16 6,365 5454,1552355,560306萩瓦方より積廻し
17    1,215 400 小郡ニ而焼立之分
222,570  4451,475 77599小郡才判ニ而焼立
23 5,700 2003,850303+2356,840 萩瓦方より之分
12,89014,5302391,43016,0001,01317,513405合計64,020枚

 この表の通り、国元で焼かれて江戸に送られた瓦は合計6万4020枚であった。大別すると本瓦葺きの瓦が全体の約4分の3、桟瓦が約4分の1という比率になっている。

(2)大坂での資材調達

 「江戸三御屋敷新御作事記録」には、これら国元からの資材輸送の記事に続いて、大坂で調達した材木・銅瓦・瓦等の書上げが記載されている。調達総額は銀107貫481匁余(金にして1791両程)である。うち材木が45貫436匁で、その種類・規格は多岐にわたっている。銅瓦は1尺×1尺2寸規格のもの11,000枚で銀高は30貫弱である(ほかに1尺4寸×3尺の銅差瓦500枚などあり)。

 瓦は合計26万5562枚を銀35貫93匁余(金にして584両余)で買い入れている。やや長くなるが、その部分の記事全体を引用しておこう。

【史料2】「江戸三御屋敷新御作事記録」
一、長屋物平瓦六万千九百枚
      内
   壱万八千五百枚   百枚ニ付八匁三分   代銀壱貫五百三拾五匁五分
   四万百枚      百枚ニ付八匁六分   代銀三貫四百四拾八匁六分
   三千三百枚      但、寸歩少々短ニ付弐千枚ニ付百枚充足瓦ニ当候分、
一、同唐草千百枚
      内 
   七百五拾枚     百枚ニ付拾六匁六分  代銀百弐拾四匁五分
   弐百九拾七枚    百枚ニ付拾七匁弐分  代銀五拾壱匁八厘
   五拾三枚       但、断前ニ有之平瓦ニ同シ、
一、同丸瓦壱万六千枚   百枚ニ付六匁五分   代銀壱貫四拾目
一、同巴千百枚 但、壱尺弐寸、
             百枚ニ付四拾八匁   代銀五百弐拾八匁
一、同八拾枚物平瓦拾六万四千五百九拾枚
      内
   九千五百枚     百枚ニ付拾匁     代銀九百五拾目
   拾五万五千九拾枚  百枚ニ付拾三匁    代銀弐拾貫百六拾壱匁七分
一、同唐草八千三百拾枚
      内
   五百枚       百枚ニ付弐拾目    代銀百目
   七千八百拾枚    百枚ニ付弐拾六匁   代銀弐貫三拾目六分
一、輪違瓦四千枚     百枚ニ付六匁五分   代銀弐百六拾目
一、五歩抜大丸瓦五百枚  百枚ニ付拾三匁五分  代銀六拾七匁五分
一、角巴六ツ       壱ツニ付壱匁五分   代銀九匁
一、角から草六ツ     壱ツニ付壱匁五分   代銀九匁
一、懸巴五拾枚      壱枚ニ付三分     代銀拾五匁
一、二ノ平瓦五拾枚    壱枚ニ付壱分六厘六毛 代銀八匁三分
一、かにめんと(*蟹面戸)五拾枚 壱枚ニ付壱分五厘 代銀七匁五分
一、壱尺腰瓦六千九百枚  壱枚ニ付六分三厘   代銀四貫三百四拾七匁
一、同角切瓦千枚     壱枚ニ付四分     代銀四百目
   銀三拾五貫九拾三匁弐分八厘
   瓦数弐拾六万五千五百六拾弐枚
     但、足瓦共、
    ならして、壱枚ニ付壱分三厘弐毛余

 「長屋物」は小さな寺院等に使う、小さ目のサイズの瓦である(4)。したがって「寸歩少々短」く、足し瓦が必要になったのである。「八拾枚物」は瓦の大きさを1坪当たりの所要枚数で表わしたもので、この場合は屋根1坪を葺くのに80枚を要するサイズの瓦をいう。その他「輪違瓦」をはじめ、国元からの輸送リストにはない多様な種類の瓦が書き上げられている。しかしその一方で、桟瓦の記載が見られない点は注意しておくべきであろう。また鬼瓦なども含まれていないが、これは別途特注されたものとも考えられる。

 ところでこの大坂調達分には、瓦の単価も記入されている。同種の瓦にも単価の違うものが含まれており、最初の「長屋物平瓦」の項には、100枚当たり銀8匁3分と8匁6分の2種類の数字が見えている。「同唐草」はその2倍の17匁前後、「同丸瓦」は少し安く6匁余、「同巴瓦」はかなり高めで48匁である。ちなみに銀8匁3分を金に直すと0.138両余で、1枚あたりでは0.00138両余となる。1両=10万円として現代の貨幣価値に換算してみると、1枚138円程度ということになる。

 以上、「江戸三御屋敷新御作事記録」から国元および大坂調達分の資材、とくに瓦について見て来た。江戸は大火の直後で資材が不足しており、国元や大坂その他で調達しなければならなかった。萩藩はこうした際、国元から江戸まで参勤道中の各地で諸物資の調査(価格及び品質)を行ない、比較検討した上で購入先を決めているが、明和作事の場合、国元・大坂以外で調達したという記事はない。国元は藩命で融通が効き、大坂は巨大市場として質量ともに安定した物資の供給が期待されたからであろうが、藩邸焼失後短期間のうちに復旧をはからなければならないという状況下で、他地域については十分な市場調査・比較検討ができなかった可能性もありえよう。

(3)江戸瓦と御国瓦

 次に、明和作事記録のうち別の1冊「新御普請御用状控」から、瓦の規格・形状に関する江戸と国元のやりとりを見ておこう。【史料3】は国元から江戸への伺い、【史料4】はそれに対する江戸からの回答である。

【史料3】「新御普請御用状控」(原文を書き下し文に改めた。以下同じ。) 
一、瓦積み越し仰せ付けられ候はば、夫々の寸尺かつこう、絵形にても差し越され候様にと存じ候。御国瓦と
江戸瓦は寸尺恰好違ひ候由、此儀は別して差し急ぎ候事。

【史料4】同上
  瓦の事
一、瓦の儀は、土・焼き立て等色々善し悪しもこれ有る儀に付き、とくと詮儀を遂げ、追て御乞合ひに及ぶべ
く候らへども、兎角は御国瓦宜しく、御勝手筋にもこれ有るべき様相見へ候間、寸尺かたがた手本の通りを以
て、先ず焼き立ての御沙汰相成り然るべき事。

 国元から、江戸瓦と御国瓦は大きさ・形状が違うので、江戸瓦に合わせてこちらで焼くのであれば至急「絵形」を送ってほしいと言われたのに対し、江戸側は、江戸瓦と御国瓦の双方について、土性や焼き方を十分比較した上で返答したいが、どうも御国瓦の方が質が良く、財政的にもその方が出費が少なく済みそうなので、別紙手本の通り国元で瓦の製造を始めてほしい、と回答している。その別紙手本の写しは次頁のようなものであった。

 瓦は現在でも生産地によって規格寸法が異なるという。江戸時代にはさらに多様であったと思われるが、このように、江戸瓦の寸法・形状に似せて国元で瓦を焼くというケースもあったのである。瓦は損傷した部分のみ差し替えることもあり、そうした場合は当然既存のそれに合わせなければならなかったであろう。なお江戸からの指示の続きに、瓦の価格についての記事がある。それによると、「桟瓦巴付き」が1枚銀3分1厘5毛(金にして10万分の525両)、「大丸・中丸・小丸、平瓦、大巴・小巴、唐草巴付き」が銀3分2厘8毛(10万分の547両)で、これは大火後の価格高騰を見込んで江戸の平常時価格の3割増しにしたものであるという注記が加えられている。

2.安永作事記録より

 前述の通り、行人坂大火の8年後である安永9年(1780)に始められ天明3年(1783)に終了した安永作事では、上屋敷殿舎の本格的再建が中心課題となった。この安永作事の作事記録のうち「桜田上御屋鋪御普請記録」にも瓦の調達に関する記事があるので、それを抽出してみよう。

【史料5】「桜田上御屋鋪御普請記録」上
十四 瓦詮儀の事
一、瓦の儀、子ノ春以来、役人衆手子瓦師を以て、土性・出来立て・直段追々聞き合はせ地他相成り候上、江
戸・地瓦、検使役人中追々聞き合はせ罷り出で候。御国瓦は運賃掛かり候へば余分高直に当り、大坂その外道
中筋の分、これ又江戸付きにては直段も高く、その上土性に依りては冰割れ申す由、殊に追々差し瓦御閊もこ
れ有るに付き、段々詮儀の上、深川瓦師長兵衛申す方尤もに付き、佐伯藤右衛門(*萩藩大工頭)聞き合はせ
候処覚書きに調へ差し出し、伺の通り仰せ付けられ、その辻を以て当御殿瓦の分は、本庄(*本所)中土調へ、
両面磨瓦にて葺き調へ相成り候事。

【史料6】「桜田上御屋鋪御普請記録」下
八 瓦御伺之事
   覚
瓦の儀、大坂・岡崎・吉田・駿府等追々見合はせ、直聞き仰せ付けられ候処、少し宛直段高下これ有り候らへ
ども、瓦仕立ての儀は大概同様と相見へ、宜しくこれ有り候。然れども御当地の辛寒強き所にては土性強過
ぎ、冬中に冱割多く、または片け損じこれ有り候由、仕方の者申す事に御座候。いか様風土に相応仕らざる
か、その上防火の為にも、土性強過ぎ候故か、火通り安く御座候由相聞こへ候。この内御当地瓦師の根本深
川・浅草彼是へ罷り越し、委しく詮儀仕り候処、仕方色々これ有り候。先ず両面磨きと申す分、一番極上に
て、弐番上片面磨き、その次にて御座候。三番中片面磨き、四番並瓦と段分けこれ有り、品々仕方相替はる由
に候。極上両面磨きの儀は、土より吟味仕り、度々切り返し候上にて相調へ候故、土目能く合ひ、両面より摺
り磨き候故、水走り能く、洩れ候儀は一切これ無く、その段は瓦師請け合ひ候由申す分に御座候。左候時は、
御利益にも相成るべき哉と相見へ候。御定直段の並瓦と見比べ候へば高直の様相見へ候らへども、大坂その外
より御取越し仰せ付けられ候運賃・その余の雑用差し引き候らへば、下直にも相当るべきか。難海の気遣ひ御
座無く、第一風土に応じ、御持ち方にも能く、御葺繕ひ仰せ付けられ候節、御買入れの手廻しも宜しく、旁以
て御当地の瓦然るべきかと詮儀仕り候。当分少々の御入増しはたとへ御座候らへども、極上両面磨きか極上片
面磨きか、両条の内仰せ付けられ候ひてはいかが御座有るべき哉。遠路の瓦取越し仰せ付けられ候ひても、右
の趣に候へば、格別の徳失も相見へず、結句以来御葺繕ひ足し瓦等の御手閊にも相成るべき哉と存じ奉り候。
何分仰せ合はされ候様に存じ奉り候事。
御刎紙、極上両面磨江戸瓦に仰せ付けられ候事。

 【史料5】【史料6】とも、作事に当たってどの産地の瓦を採用するか、江戸と国元だけでなく参勤道中筋の各地に藩士を派遣して、それぞれの価格や土質を含めた瓦の品質を詳しく調査したことが記されている。そして国元や大坂で調達した場合は多額の輸送賃がかかること、また大坂・岡崎・吉田・駿府などの瓦は寒冷に弱く江戸では凍破(いてわれ)することが指摘されている。検討の結果は、【史料5】によれば深川瓦師長兵衛の意見を聞き入れて、「当御殿瓦の分」は本所中土を使った両面磨き瓦を採用することになった。

 【史料6】はもう少し記述が詳しい。深川・浅草あたりの瓦師に聞いたところ、瓦には[1] 極上両面磨き、[2] 上片面磨き、[3] 中片面磨き、[4] 並瓦という4種類があると教えられ、極上両面磨きは通常用いている並瓦より割高ではあるが大変品質がよく、第一大坂等から輸送した場合に比べればかえって安くつくこと、輸送船の難破の気遣いもないこと、風土に合っていて持ちがいいこと、修繕をする際も足し瓦が容易に入手できることなどから、江戸瓦が適当であると作事担当者は判断し、結局その通り極上両面磨き江戸瓦が採用されたと記している。

 明和作事では、瓦は主として大坂および国元で調達されていたが、これは大火直後という事情を考慮しなければならない。安永の上屋敷殿舎作事に当たっては、上記のような検討を経て、江戸瓦が採用されたのである。

 安永作事記録のうち瓦について詳しく記述されているのは、上記の箇所だけである。ちなみに作事全体の見積り額(実行額ではない)は銀2740貫549匁余(金4万5676両程)であり、そのうち「瓦類御入用之分」は銀62貫717匁余(金1045両程)であった。

〔補足〕「土性」に関連して

 上の【史料5】の中に、「本庄(本所)中土」で焼いた江戸瓦、という表現があった。これに関連して、瓦自体の事例ではないが、壁土の「土性」についての記述を紹介しておきたい。


【史料7】「桜田上御屋鋪御普請記録」上
十七 壁土御詮儀の事
一、壁土・御蔵土とも、御国土然るべきの由御沙汰に付き、段々土の儀諸所聞き合はせ候上、江戸壁師功者の
詮儀、扶持方役人中町方罷り出、讃談仕り候上、書き上げ候処、江戸笠井(*葛西)辺より掘出し候荒木田上
中土を以て数遍切返し、土拵らへ念を入れ相用ひ候様にと、丑二月二日仰せ出され、その辻を以て御殿壁方・
御蔵その外とも相用ひ候事。
   別紙土讃談書これ有り。

 荒木田土は、「近世、武蔵国(東京都)豊島郡町屋、および尾久辺の荒川に沿った荒木田原が主産地であった赤土の粘土。粘着力が強く壁や、瓦ぶきの下に用いられる。」(小学館『日本国語大辞典』)という土である。上の史料によると、萩藩は安永作事の際、江戸近郊葛西で採掘した荒木田土(上中土)を壁土・土蔵土に使用すると決めている。


【史料8】「桜田上御屋鋪御普請記録」上
十 御蔵土詮儀の事
一、御国土近年少々宛差し登せられ、御作事において遣方をも仰せ付けられ、この度も御国土・江戸土の詮儀
の上、宜しき分御遣はせ成さるべしとの御事に付き、詮儀仕り候所并御入目銀の差別共、左の通り御座候事。
   土性承り合はせ
一、御国土を江戸土師共へ承り合はせ候処、赤土にてねばり強く、宜しき様に相見へ候らへども、常々遣ひ馴
れ申さず候故、委細存知申さざるの由申す事に御座候。江戸にて蔵土に肝要と用ひ候は、本庄(*本所)・笠井
(*葛西)辺より掘出し候荒木田土を用ひ候由、荒木田にも、上・中ノ中(脱アルカ)・底土と申す四段これ有
り、掘出し候所土にへだへこれ有る由。上土は削り除け候。其次、中をもサクト申す砂交り宜しからざる由、
その次を中土ノ上と仕り、この分至って宜しく仕り候由。その次を底土と申し、土は宜しく候らへども、小石
交り候故遣ひ申さず、右三段目にこれ有る中土を蔵には撰び相求め、功者の土師に土拵らへを頼み、すさを入、
数遍切返させ、腐らかし候ひて、蔵へ用ひ候を、本町富家抔の致し方の由。壁の厚さ八寸九寸位に仕り、響
目・割目・鼠穴等、戸口・窓口・立付けの透きさへこれ無く候へば、火を入れ申さざる由。尤も五三年の内に
壁・屋ね等の修甫仕り、仮令当分にても少々響目・穴これ有る時は、即刻繕ひ直し候由申す事に御座候。
渋谷土、是又土性宜しく候由、併しながら本町筋町家抔には余り用ひ申さず、山手町家抔には取越し便能く候
故相用ひ候由、土拵らへは右同様の由相聞へ候。
   以上、

 これは【史料7】よりもさらに詳細な内容である(【史料7】末尾の「別紙土讃談書」がこれか)。これによると、荒木田土にも地表面に近い方から[1] 上土、[2] 中土、[3] 中土の上、[4] 底土の4段階があり、[1] は使えないので削りよけ、[2] は砂交じり、[4] も小石交じりで不適なので、壁土には[3] を使うのがよいという。末尾近くに渋谷土というのにも言及し、土性はよいが江戸町方の中心である本町辺りの富裕な町家では使わず、山の手の町家などでは運搬の便がいいので使っていると述べている。

 この史料はこの後に続けて、国元の土を江戸に輸送した場合と江戸葛西・本所辺りの「荒木田中土上之分」、および渋谷土とで、かかる費用の比較を行なった際の記事を載せている。それによると国元の土10坪(1坪はここでは6尺5寸立方)を掘り出して千石船で江戸に輸送し、桜田上屋敷まで届けるのに必要なのは銀4貫294匁、荒木田土は土屋権三郎の見積もりで銀537匁5分、渋谷土は渋谷土屋忠七の見積もりで銀825匁であったので、詮儀の結果荒木田土の採用が決定されたという。所要経費の比較では国元の土が圧倒的に不利であるから当然の結果であるが、明和作事では国元から多量の土が輸送されており、この安永作事においても江戸土の採用が自明のこととはされていない。土の質の問題をはじめ、国元への資金投下のメリット等、金額の比較だけでは計れない要素もあるのであろう。明らかな価格差がある場合でも単純に安価な方を選択するわけではないという点に、注意しておきたい。

おわりに

 以上、萩藩江戸屋敷における明和・安永両度の作事を素材として、とくに瓦の調達方法に焦点を当てて関係史料を紹介した。明和作事の場合、瓦の調達地は主として大坂と国元であったが、安永作事では江戸の上質な瓦が採用されたということがわかった。

 しかしながら、ここで紹介したのは萩藩というたった一つの藩の、それも前後わずか十数年の時期の事例である。他の地方に領地をもつ藩、より小さな藩の場合はどうだったのか、それぞれの実態を検証した上でなければ一般化できないことはいうまでもない。

 また近世前期や後期、とくに江戸およびその周辺での諸物資生産の体制が整っていなかった17世紀半ばまでの時期における瓦の流通・供給については、本格的な検討と解明が必要である。推測によっていうと、近世初期にはやはり遠隔地から供給される比率が高かったのではなかろうか。17世紀後半以降は幕府による明暦大火後の瓦使用規制という事態を迎えるが、18世紀に入ると享保期における使用奨励への政策転換とも相竢って、江戸瓦(周辺地域を含む)の生産体制は整備されていったことであろう。大名屋敷においても江戸瓦使用の傾向が進展していったことが容易に推察される。

 しかし今回見た萩藩の事例のうち、明和作事では大坂・国元の瓦が大量に使用されていた。大火後の江戸における資材払底という事情ももちろんあったであろうが、逆にいえばこの事例を含め、江戸でたびたび生じた大火の後の作事では、江戸以外の瓦が用いられた可能性が一定程度はあったということになる。また、大火から8年を経て開始された安永作事においても、最初から江戸瓦を使用することが決定されていたわけではない。通時的にみれば、全体的な趨勢として地元生産の瓦が他を凌駕していく過程があったのだとしても、領国(大名屋敷の場合)や特産地の瓦は依然としてある程度は使用されていたのであろう。 

 江戸遺跡の発掘はその調査事例を年々増しており、瓦についても編年や産地についての研究が進んできている。文献史料に瓦の流通が記されていることは稀であるが、蓄積されてきた考古学の成果を参考にしながら、より多くの事例を発見していく努力が必要である。

 なお、今回紹介した史料の中に、瓦の規格(サイズ)に関する情報がいくつか含まれていた。瓦は今日においても産地ごとに多様な規格を残しているが、江戸時代の場合はどうであったのか、考古学の側でもこの点についての本格的な分析・検討が進められるよう期待したい。

(1)安永2年(1773)11月時点における萩藩江戸藩邸は、下記の通りである(大田報助編『毛利十一代史』巻80、安永2年8月29日条、マツノ書店1999年復刻版第7冊604〜608頁)。

拝領上屋敷      外桜田        1万0341坪余
拝領中屋敷      外桜田新橋内       1633坪
拝領屋敷       虎之御門内(中屋敷囲込)  2010坪余
拝領下屋敷      麻布龍土       3万3780坪
町並屋敷       深川鶴歩町      1万8954坪
抱屋敷        荏原郡若林村     1万8300坪
家来抱屋敷(吉川監物) 赤坂今井谷        3500坪
預り地        三河台          5400坪
同          同            3780坪

(2)〔明和作事記録〕

八館邸−14  新御普請諸沙汰一途記録 明和9〜安永2   1冊
   −15  新御普請記録並御用状控 明和9〜安永2   1冊
   −16  江戸三御屋敷新御作事記録 明和9〜安永2  1冊
〔安永作事記録〕
八館邸− 9  桜田上御屋鋪御普請記録 安永9〜天明3   2冊
   −18  桜田御普請諸沙汰控 安永9         1冊

 なお、これらの史料は「作事記録を読む会」によって読解・分析の作業が進められている。また同研究会の活動を契機として実施された1996〜98年度文部省科学研究費補助金による共同研究「近世都市における巨大建設技術に関する総合的研究」(研究代表者宮崎)においても重要な研究素材として扱われ、1996年12月21日の全体研究会では藤川昌樹氏がこれらの史料をもとにして「江戸藩邸造営における建設体制」の報告を行ない、さらに同科研の研究成果報告書(1999年3月)には上記「江戸三御屋敷新御作事記録」の全文が翻刻掲載された。本報告は、これらの成果に依拠したものである。
(3)田中誠二「萩藩後期の藩財政」(『山口大学文学会志』第49巻、1999年)
(4)坪井利弘『日本の瓦屋根』(理工学社、1976年) 53頁。


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