● 2004年9月6日発行
◇江戸遺跡研究会第96回特別例会は、2004年7月10日(土)午後1時00分より江戸東京博物館学習室にて行われ、松本 勝氏、山口剛志氏、渡辺 一氏より、以下の内容が報告されました。
岩富城跡は千葉県富津市大字亀沢と君津市大字山高原の境界部分、最高位の標高が115mを計測するやせ尾根丘陵上に所在する、寺院跡と中世城郭の複合遺跡である。
ここには現在、新義真言宗智山派に属する妙覚山岩富寺が所在し、現在でも檀家40軒の菩提寺として存続している。寺院は第2図のとおり、断崖絶壁上のほぼ山頂部に立地しており、周囲の奇岩、古木などを含め、現在でも「霊場」としてのおもむきを十分残す興味深い寺院のひとつといえる。
また、周囲は鬱蒼とした照葉樹林およびモウソウ竹林がひろがり、頂部からはさらにその先の眺望が極めて良好である。ここからはマザー牧場で有名な鬼泪山、富津岬周辺から浦賀水道をこえ、対岸の三浦半島、伊豆大島なども広く見渡せる絶好のロケーションであり、鬼泪山からつらなる房総屈指の山岳霊場寺院である鹿野山神野寺(君津市)には、林道を経て南東5Kmほどで到達する。
今回、岩富寺を含む190,000m2という広大な敷地に対して霊園造成する開発計画があり、そのうちの遺跡内における斜面などをのぞく調査可能箇所、13,200m2を対象に平成15年度に(財)君津郡市文化財センターが発掘調査を実施した。
最初に5・6月を主体に確認調査を実施し、7月に確認調査成果の報告書作成を実施した。そして同年11月下旬から3月上旬まで本調査を実施し、本調査の整理作業は基礎的整理を3月末にすすめているものの、実測を含む本格的な整理作業は平成16年7月から再開したばかりで、その点ではわずかな情報しか得られていない。
したがって、今回の報告では確認調査成果に重点を置き、本調査で得られた成果については断片的ではあるが、補足的に途中経過として付け加えておきたい。
岩富寺は市境に位置する寺院であるが、境内の主要部は富津市に属しており、『富津市史 通史』によれば、当寺は市中でも一番古い歴史を持つ寺院と位置付けられている(註1)。その開基は斉明天皇6年(660)と群を抜く古さではあるが、これらは寺伝や縁起類によるもので、信憑性はない。
ところが、今回の調査によって当寺からは8世紀代の布目瓦片が1点出土したのを最古資料とし、そのほか9世紀代に位置付けられる土師器香炉蓋、9世紀後半ないしは10世紀代を中心とする土師器坏、土師器足高高台、須恵器、灰釉陶器などが北側のI−10郭や南東側のII−4郭(第3図)から出土しており、おそらく古代から継続する山岳寺院である可能性が極めて高くなった。
残念ながら古代の遺構は少なく、香炉蓋が出土した斜面上位から10世紀の土師器坏をともなう木炭および焼土層を1ヵ所確認した。確証はないがこれは修法壇の痕跡であった可能性がある(註2)。
さらに、時代は下って、少なくとも13世紀後半以降には機能していたであろうと考えられる、集石火葬墓および廟堂(墳墓堂)跡を山頂部の平場(I−1郭)にて検出した。
この平場はとくに西側の眺望の良好な勝地として位置付けられる場所であり、厳寒期の1・2月頃には富津洲、浦賀水道越しに横須賀周辺の海浜部や、箱根・丹沢連峰や富士山がみわたせる。
この平場は痩せ尾根斜面を削り、壁と底面がほぼ垂直になるように構築しており、横浜市の上行寺東やぐら群を想像させるような精巧な人工的岩盤整形面である。
集石火葬墓・墳墓堂からは12世紀後半頃の常滑三筋壷の破片を最古資料とし、13世紀後半〜14世紀前半に位置付けられる常滑不識広口壷(蔵骨器)や同時期のかわらけ、15世紀代の可能性がある常滑不識広口壷(蔵骨器)が出土し、おびただしい数が出土した玉石の中には、法華経譬喩品、あるいは“南無阿弥陀仏”と称名念仏名号が墨書された多字経石が数点含まれていた。
火葬墓の所在する空間には、廟堂として機能したであろう数棟の掘立柱建物跡が存在し、垂直な壁に直面した南西側が墓の主体であり、同時にここが廟堂の中心として機能していたものと考える。
蔵骨器からは成人のものと考える焼骨を検出し、そのほか数基のピット内などからも焼骨が出土した。このことから、数代にわたる僧侶の蔵骨・改葬・供養儀礼が繰り返され、廟堂が維持・管理されていったものと想定する。おそらく15世紀代と想定する常滑窯産の蔵骨器(第3図右上)はこの中での最新資料と考えられ、造墓の終焉は15世紀以降と想定できる。
さて、かわらけを中心とする該期の遺物は南側の斜面部からも比較的多く出土しており、中世段階では寺院全体が山岳霊場、あるいは納骨霊場として機能した聖地空間であり、「堂ノ下」へ下る南側斜面部が寺の表参道であった可能性がある
戦国時代の遺構として、曲輪として利用された可能性のある平場や堀切などを検出している。堀切については、今回調査できなかったものも含めて7条確認した。これらは寺域を囲繞するように同心円状に存在しており、あたかも寺の結界を示しているようにうかがえる(第2図)。
さらにこの堀切については、対象となった3条についての調査の結果、すべてに畝状の「仕切り」が設けられた技巧的なもので、広義の「障子堀」と同様の位置付けができうるものである。
また、この時期に構築されたであろう平場としては、おそらく南東側のII−1〜3郭があり、その周辺を中心に該期の遺物が出土している。
出土遺物は瀬戸擂鉢、常滑製品などが主体で、出土量としては少ない。現時点での概要としてはおおむね、古瀬戸後期様式の後半から大窯期が主体であり、その他17世紀前半から中葉に位置付けられる志野皿および瀬戸灰釉皿も同様の場所から出土していた(第5図−42、43と同様の資料)。
そのなかで興味深いのは南東側のII−4郭の成果である。ここからは10世紀代を中心とする多量の遺物が出土しており、古代における山林修行の場として機能していた平場が戦国期から近世初頭段階にも何らかの形で利用されていたことが確認でき、該期のかわらけ、志野皿などが出土した。
史料的裏付けはないが、『君津郡誌』(大正15年編纂)に記載された寺伝資料によると、寺は古代以降、数度にわたる盛衰を経験したものの、元禄十六年(1703)にいたって、僧秀海が登場し、岩富寺の復興事業が行われ、新義真言宗智山派寺院として隆盛する基礎が築かれたとされ、彼自身が岩富寺の中興として位置付けられている。おそらくこの頃から庶民を対象とし、祈祷寺的な意味合いを持つ修験的巡礼霊場システムが整えられ、発展にむかっていったことが想像できるが、それを裏付けるように、18世紀後半以降、明治時代頃までの遺構・遺物が充実している。
しかし、その場所は現寺院が所在する北側を中心とする周辺で完結しており、「オクノイン」と伝えられる寺院背後(第2図)では、該期の様相は極めて希薄であった。
その中でも寺院前面に所在するI−6、7郭の調査成果がとくに興味深い。多数検出された掘立柱建物跡は16世紀代のものとされる1棟をのぞいて、ほとんど江戸後期以降のものであり、明治期頃までおそらく何度も建てかえられながらも維持された建物であったと想像できる。
伝承ではかつての岩富寺は多数の坊や院のある伽藍が充実した寺院であったとされ、同時に沙弥僧のための修行寺院であったとされている。そのため、参道沿いの小さい平場には、袈裟などの装束を売る店をはじめ、多くの店が軒を連ねていたといわれている。
近世遺物の組成については現在分析中であるが、磁器碗や皿などは比較的等質的な汎用品が多く、その他瀬戸・信楽を中心とする徳利、堺・明石系の擂鉢、あるいは土瓶・灯明具など、一般的集落と同様の遺物が多数出土している。そのほか多種香炉、瀬戸・美濃仏花瓶、あるいは陶器・磁器の仏飯器、瀬戸溲瓶などは、ある意味では寺院に関するものととらえられようが、明確な仏具、什器などはほとんど出土しなかった。
等質的な汎用品が多く出土している点では寺院関連より、むしろ参拝客を対象とした茶店などの店舗、あるいは宿坊などの施設、もしくは檀家信徒の法会などの場があった可能性が指摘できる。
そして、その中心部分に位置する小型土坑(I−6郭SK‐008)からは、明治期の印判磁器を最新資料とする陶磁器類やワインボトルなど19世紀代の遺物が狭い範囲で多く出土した。その多くが遺存良好であり、完形で残る陶磁器類も多く出土している。このことは、明治期の段階で一括廃棄せざるをえない状況が読み取れ、ここにもひとつの画期があったことが想像できる。
さて、近世以降の歴代住職墓については、観音堂背後の鬱蒼とした崖下に展開しており、この墓域については現住職の法系にあり、取り扱いの問題で調査にいたることがなかったが、石塔あるいは墓標の銘文から考えるならばこの中では正保3年(1646)「宥ヵ栄」と書かれた一石五輪塔が最古であり、以降昭和期まで連綿とその系譜が連なることが確認できる。
とくにこのなかでは幕末頃の石塔・墓標がきわめて大型であり、その隆盛期を垣間見せるものとなった。この法灯の推移については今後史料調査などをしていく予定であるが、新義真言宗としての岩富寺の歴史を把握できる資料のひとつであると考える。
そのほか近世の檀家墓は境内地には極めて少なく、寺域北端部に江戸後期ころのものがわずかに存在するのみで、そのほか近代以降の檀家墓が観音堂裏に4基ほど確認できるのみである。また、調査によっても墓とみなされる遺構は存在しなかった。墓地の分布からみても、岩富寺は近世において(巡礼)霊場、ないしは祈祷寺として機能していたものととらえることが可能である。
江戸後期をピークとする遺物の出土量は、明治を過ぎて激減し、極めて少なくなる傾向はいなめない。当然これらは現寺院内部に保存されていることも加味して考えなければならないが、相対的には極めて少ない量である。
岩富寺は太平洋戦争時に米軍の空爆(誤爆)を被り、平安仏とされる千手観音像が安置される観音堂が全焼し、壊滅的ダメージをうけたという。この観音堂跡がI−2郭に残る円形の基壇跡(第3図)であり、その前面に仮堂が建てられ、後継の千手観音像(客仏?)が安置されている。そして戦後数年を経て当寺は兼務寺院となり、実質無住となった。
岩富寺は古代からの街道の要衝にあり、奈良時代に創建された君津市の九十九坊廃寺から郡集落を経て、富津市佐貫集落、あるいは鹿野山、そして富津岬方面への尾根道ルートの分岐点に位置する寺院である。よって古代から重要な場所であったことは明確であり、その寺域については閑寂な仏教的山林修行の場としても位置付けできるものである。その盛期は遺物の充実する10世紀代であり、各平場に小堂宇が建てられ、修行が行われていたものと推定する。
中世になると、12世紀の末もしくは13世紀代において、当寺が復興あるいは継続によって、納骨聖地として再び充実しはじめる。この頃、鹿野山神野寺、清澄山清澄寺などといった有力な山岳寺院は天台宗に属しており、中世後半段階で急激に勢力を増した新義真言宗(醍醐寺三宝院)の末寺に変化していることが確認されている。
岩富寺についても、集石火葬墓から出土した多字経石に書かれた「法華経」の経文の存在などから天台宗系の寺院であった可能性は高く、僧侶集団が中心となり、壇越、地域民衆などによって、眺望の良好な丘陵最高位が平場に造成され、逝去した先師の菩提を弔い、供養する墳墓堂(廟堂)が築かれ、その後、歴代住持を弔う納骨聖地空間として機能していったと考える。
寺院のレイアウトは近世以降に大きく変えられている可能性もあり、そのため中世の遺構は希薄であるが、おそらく現寺院周辺が当時からその中枢として機能していたと想定できる(註3)。
戦国期には寺は城塞化しているが、これは近隣城郭の文献研究成果などから類推(註4)するならば、おそらく寺院勢力自身が武装していたのではなく、隣接した場所に上総佐貫城という拠点城郭があり、物資海上輸送の拠点である富津湊も至近距離で、なおかつこれらへの眺望も良好な利点から、里見氏あるいは北条氏といった広域権力によってこの地域が重要視され、同時に山岳寺院勢力のノウハウを吸収すべく、広域権力と寺院勢力の妥協により城塞化した可能性がある。
時代は近世にいたり、近世初頭段階においても城郭的様相は継続している可能性は指摘できるものの、寺院は小規模ながら継続していたのではないかと現時点では考えている(註5)。
18世紀後半以降においては、当寺は巡礼霊場、あるいは祈祷寺として庶民的な信仰の場として比較的短期間に隆盛したものとみられ、おもにその中心部が広く再造成されたものと想定する。
同時に、確認調査においてのみ調査に着手した、谷部分に位置する「堂ノ下」(第2図)中段の大型平場からは、トレンチ調査とはいえ、極めて多量の陶磁器が出土した。しかし、出土土層が一定しておらず、これらは何らかの廃棄にともなう遺物であることが読み取れた。おそらく崖の上位に位置する寺院境内から近代の前半頃に土砂ごと廃棄されていたものと考えられるが、そのことを加味してもかなり多量の陶磁器を確保した施設が存在したものと想定できる。
近代の状況としては、明治期において何らかのダメージがあったものの、大型寺院として存続し、太平洋戦争においての空爆をへて現在にいたっている。
また、廟堂跡・集石火葬墓の調査成果、あるいは近世以降の歴代住職墓の石塔、墓標のあり方から現時点での流れを総括するならば、前述のとおり、遅くとも当寺は13世紀代ころには天台宗系の山岳寺院として機能しており、勧進活動、壇越の支援、地域住民の信仰を得て発展し、戦国時代前後(15世紀後半〜16世紀代)の段階で、真言宗智山派の前身である醍醐寺三宝院系統の集団との勢力交替があった。これが歴代住職墓の系譜にあたり、彼らの活動により18世紀の段階で上総国観音巡礼霊場などに整備されることによって発展し、それが明治期まで存続した。その後やや衰退するものの、戦前までその痕跡が残っていたものと考える。
さて、現在は本格的な整理作業に着手しはじめたばかりであり(報告書は今年度刊行)、断片的でしか岩富寺の実像を把握しきれていない。今後は掘立柱建物跡などの遺構の微細な検討、分析をすすめ、遺物の組成などについてもう少しふみこんで検証してみたいと考えている。さらに近隣に所在する中本山寺院を含む寺院の調査、地方寺院の勢力史、思想史などについても考えてみる予定である。課題は山積みである。今後、いろいろな面でご教示いただければ幸いである。
小田原城では、昭和46年(1971)小田原城本丸・二の丸における試掘調査を最初として、平成14年度までの32年間で192地点もの発掘調査が実施されている。これらの成果については、既に一定の成果が提示されているが(塚田ほか1995など)、ここでは、小田原城における近年の発掘調査の中で特に注目される成果について遺構・遺物別に紹介し、考古学からみた小田原城を改めて考えてみたい。
小田原城は、神奈川県西部に位置する小田原市の中央やや西寄りに所在する。地形的には、箱根外輪山から派生した台地の先端縁辺部に位置し、城の南西には早川、北東には山王川と酒匂川が流れ、南東は相模湾に面しており、自然地形を巧みに利用した立地となっている(第1図)。
小田原城の城域は、西端の標高123.8mを測る小峯御鐘ノ台を頂点として、そこから派生する三本の丘陵と相模湾に面した標高10m前後の沖積低地とからなっている。これらを、堀と土塁からなる周囲約9Kmの総構(大外郭)が巡っており、城内はもとより城下までをも取り込んでいる。この総構は、北条氏が天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに備えて構築したものであり、この総構の存在こそ小田原城が中世城郭最大の城といわれる所以である。
小田原城の起源については、応永23年(1416)上杉禅秀の乱の戦功によって大森頼春が小田原に進出した以降のことと考えられているが、明確なことはわかっていない。この頃の小田原城は、標高68m前後を測る八幡山丘陵中腹の八幡山古郭にあったと想定されており、現在の神奈川県立小田原高等学校付近がここに相当する。
歴史的に明らかとなるのは、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏を破って小田原城を奪取したとされる明応5年(1496)から文亀元年(1501)以降のことである。これによって五代にわたる北条時代が始まり、二代氏綱の時代から小田原城が本城となった。三代氏康が関東一円にまで勢力を拡大しても、領国西端の小田原城はそのまま本城として発展し続けた。
天正15年(1587)以降、豊臣秀吉との対決姿勢を強めていった四代氏政・五代氏直は、城下町・宿場町をも取り込んだ堀と土塁からなる周囲約9Kmの総構を造営した。一方、秀吉は、天正18年(1590)4月に石垣山一夜城を造営するなど長期戦の構えで小田原城を包囲し、小田原合戦が始まった。そして、その三箇月余り後の7月5日小田原城は開城し、秀吉による実質上の天下統一が達成された。
北条氏の後は、徳川家康旧来の家臣である大久保忠世が天正18年(1590)4万5千石で入封した。そして、文禄3年(1594)には、その子忠隣が6万5千石で城主となったが、慶長19年(1614)突如改易となって近江国に配流となった。
大久保忠隣改易後は、幕府が指名した譜代大名と旗本が交代で城番をつとめた番城時代となった。その後、一旦は、元和5年(1619)阿部正次が上総国大多喜より5万石で入封して城主となった。しかし、元和9年(1623)には再び武蔵国岩付へと転封となったため、小田原城は再び城主不在となった。
寛永9年(1632)、将軍家光の乳母をつとめた春日局の子であり、家光の側近でもあった稲葉正勝が下野国真岡より8万5千石で入封した。正勝死後、子の正則が城主となり、11万7千石まで加増された。この稲葉氏の時代には、小田原城の近世化工事が本格的に行われ、現在みられる石垣を伴う小田原城が完成した。その後、天和3年(1683)には正則の子正通が城主となるが、貞亨2年(1685)に越後国高田に転封となった。
貞亨3年(1686)、大久保忠朝が下総国佐倉から10万3千石で入封し、72年ぶりに小田原城主に復帰した。石高は、元禄7年(1694)に11万3千石に加増されたが、これ以降幕末まで変わることはなかった。また、この時代は、災害の復興に明け暮れる日々を送ったため、藩の維持が精一杯の状態で明治維新を迎えることとなった。
明治3年(1870)小田原藩は、明治政府に対して廃城届を提出した。そして、天守閣・門・櫓など5棟の建物は、900両で民間に払い下げられて解体された。さらに、翌年の廃藩置県によって小田原藩政に完全に終止符が打たれ、小田原城の長い歴史に幕を閉じることとなったのである。
八幡山古郭は、初期の小田原城が存在したところと想定されているが、ここでは平成14年(2002)にかながわ考古学財団によって発掘調査が行われている(第1図1)。調査区の大部分は既に削平されていたが、中・近世では、藤原平南入堀や直径約3.6mを測る小田原城最大の石組井戸(第2図)など、初期の小田原城を彷彿とさせるような遺構が検出されている(大上ほか2004)。現在、これらの遺構が重要であるという視点から神奈川県によって遺跡保存が検討されており、その動向が注目される。
現在の小田原城は、本丸・二の丸の大部分と三の丸・総構の一部が国指定史跡となっているが、この整備の一環として小田原市教育委員会が実施した二の丸の発掘調査が昭和57年(1982)以降断続的に行われている。この結果、住吉堀(中堀)(2)が16〜17世紀の間に二度の大改修が行われたこと(第3図)(塚田ほか1995)、元禄16年(1703)の火災で焼失した藩主屋敷である二の丸御殿(3)の建物礎石が検出されたこと(大島1999)、馬屋曲輪・大腰掛(4)に関連する建物礎石・石組井戸などが検出されたことなど(大島2001・2002)、二の丸における史跡整備にとって重要な資料が多く得られた。
三の丸東堀では、平成3年(1991)に玉川文化財研究所によって発掘調査が行われた第I地点(5)において、三段に積まれた切石積石垣が検出された(第4図)(塚田ほか1995)。この石垣は、17世紀中葉と推定され、三の丸堀で初めての発見となった。さらに、第II地点(6)では、平成3・4年(1991・92)に玉川文化財研究所によって発掘調査が行われ、先の三段に積まれた切石積石垣の下層から17世紀初頭前後と推定される玉石積石垣が検出された(第5図)(小林ほか1995)。この玉石積石垣の位置は、現在最古の城絵図である「加藤図」(1614〜31年頃)の記述と一致することから、「加藤図」を再評価する資料ともなった。
三の丸南堀は、第I〜IV地点において石垣が検出されなかったが、平成11年(1999)に小田原市教育委員会が発掘調査を行った第V・VI地点(7・8)では、三の丸東堀と同じく三段に積まれた切石積石垣が検出され、三の丸南堀にも石垣を構築していることが明らかとなった(佐々木ほか2002)。なお、三の丸北堀は、法面に石垣が構築された事例がいまだ確認されていない。
小田原城の最も外側の守りである総構は、堀と土塁が約9Kmも延びる大規模な遺構である。平成13年(2001)に小田原市教育委員会が発掘調査を実施した伝肇寺西第I地点(9)では、初めて土塁と堀の全貌が明らかにされた(第6図)(山口ほか2004)。堀幅16.5m、堀底幅6.5m、深さ10.0mという非常に大規模な堀で、堀底には北条氏が積極的に取り入れた堀障子と呼ばれる堀底を堰堤状に仕切った施設も確認されている。遺構の規模・構造から豊臣秀吉に対する北条氏の並々ならぬ対決姿勢が感じられ、大変興味深い遺構である。
小田原城下では、平成14年(2002)に鎌倉遺跡調査会が発掘調査を行った筋違橋町遺跡第III地点(10)において、慶長6年(1601)の宿駅制成立当初の東海道に相当する道路と石組水路が検出された(第7図)(降矢ほか2003)。筋違橋町付近の近世東海道は、現在の国道1号線下にあったとされていたが、その通説をくつがえす発見となった。
まず、平成5・6年(1993・94)に玉川文化財研究所によって発掘調査が行われた藩校集成館跡第III地点(11)において、当時最高級磁器である鍋島焼が多量に出土した(小林2000)。その内訳は、色絵七寸皿・六角皿、染付七寸皿・尺皿、青磁染付尺皿、青磁七寸皿であり、七寸皿は揃いの皿であった(第8図)。鍋島焼は、鍋島藩が将軍家への献上品や大名・公家などへの贈答品として製作したもので、一般には販売していない製品である。では、どうして小田原から出土したのであろうか。これに関連する史料として、鍋島藩七代藩主重茂の年譜「重茂公御年譜」巻六の中に、明和2年(1765)国許に帰る途中病気で小田原に数十日とどまった時、小田原藩主大久保忠由に大変お世話になった。そのお礼として陶器その他を進上した、とある(八幡ほか1987)。出土した鍋島焼がこの時のものかは別としても、小田原藩と鍋島藩の交流を示す遺物として重要である。
つぎに、平成2年(1990)に小田原市教育委員会が発掘調査を実施した大久保雅楽介邸跡第VI地点(12)では、宝永4年(1707)の富士山噴火に伴うスコリア層中から多量の陶磁器が出土した(山口2000)。これらの遺物には、型紙摺・コンニャク印判・五弁花の装飾技法やくらわんか手と呼ばれる器種が認められ、1707年には既に出現していたものであることが検証された(第9図)。1707年下限の年代の確かな資料として肥前陶磁研究上重要な発見である。
平成3・4年(1991・92)に小田原市教育委員会が発掘調査を行った本町遺跡第I地点(13)では、1580〜90年代前半に属する藁灰釉の岸岳系唐津陶器窯の碗・皿が多量に出土した(第10図)(山口ほか2003)。小田原城では、唐津製品の出土が非常に少ない傾向にあるため、このような初期段階の製品が多量に出土したことは、小田原城はもとより太平洋沿岸地域における岸岳系唐津製品の流通を探る上で貴重な発見である。現段階では、豊臣秀吉の朝鮮出征である文禄元年(1592)の文禄の役に大久保忠隣が肥前名護屋城まで出陣していることから、この時に小田原にもたらされたと推定しておきたい。
平成6年(1994)に小田原市教育委員会が発掘調査を行った欄干橋町遺跡第IV地点(14)では、16〜19世紀の遺構・遺物が多数検出されたが、特に19世紀初頭の国産陶磁器とともに中国徳化窯系色絵碗が多数出土していることは注目される(第11図)(山口ほか1998)。
最後に、平成9年(1997)に小田原市教育委員会によって発掘調査された欄干橋町遺跡第V地点(15)では、ガラス製簪・笄の破片が77点も出土した(第12図)(諏訪間ほか1999)。これらの製品が非常に多く出土したこと、調査地が飯盛女を置いていた旅籠に相当することから、19世紀に旅籠で働く飯盛女の装飾品であろうと推定されている。
以上のように、小田原城における近年の発掘調査成果を概観してきた。小田原城においても、近年新たな知見が多く蓄積されていることが改めて理解できた。今後は、これらの考古資料を基礎にした小田原の歴史をどのように再構築するのか、また、考古資料から見た小田原の歴史を一般市民にどのように普及させたら良いかなど、さまざまな努力が求められている時期にきているであろう。
熊井焼の歴史(『五品共進会内国博覧会 陶器解説 上』、昭和53年新聞記事より作成)
a 陶器
b 土器類(赤焼き品類)
c 瓦質土器類
d 焼き締め品
e 土管
f 窯道具
a 施釉(灰釉、鉄釉、灰白色釉主体)
b 装飾(イッチン、飛鉋、染付、筆描、貼付文など)
(主に伊藤正義ほか『東北の陶磁史』1990福島県立博物館をもとに)
a 江戸前期
b 江戸中期−相馬大堀焼の場合−
c 江戸後期
江戸時代、人びとはどのように葬られたのか。土葬と火葬の持つ意味、 納棺時に横たわるか蹲るかの違い、地域社会の特質と変容を伝える墓 標、副葬品の数々など、庶民から大名まで多様な墓の発掘から解き明 かす。さらに三途の川の渡し賃「六道銭」や、遺体の頭に鍋をかぶせ た「鍋被り葬」にも触れ、江戸の墓をさまざまな角度から考察する。 江戸遺跡研究会第9回大会『江戸の墓と葬制』の記録である。
主な内容
はしがき | 寺島孝一 |
近世墓研究の課題と展望−基調報告− | 古泉 弘 |
東叡山寛永寺護国院墓地跡の調査と成果 | 惟村忠志 |
発掘事例にみる多摩丘陵周辺の近世墓制 | 長佐古真也 |
山梨県北部における江戸時代墓地につい | て森原明廣 |
経ケ峰伊達家三代墓所の調査 | 小井川和夫 |
出土六道銭からみた近世・堺の墓地と火葬場 | 嶋谷和彦 |
近世の鍋被り人骨について | 桜井準也 |
都市下層民衆の墓制をめぐって | 西木浩一 |
江戸時代人の身長と棺の大きさ | 平本嘉助 |
江戸の墓の埋葬施設と副葬品 | 谷川章雄 |
あとがき | 古泉 弘 |