● 2004 年5月6日発行
摘要:江戸では徳川家康の入城後、城下町が次第に整備され、幕末までスプロール現象を起こしながらその範囲を拡大していったことは周知のとおりである。江戸遺跡の発掘調査により、屋敷などの建設にともなう大規模な土地改変が、江戸時代に広くあったことが具体的に確認されてきた。中には江戸城外堀の例のように、土地利用変化が幕府の全体的な城下町整備計画とでも呼ぶべきような規範に則って起きている節もある。江戸全体を概観して、城下町形成にともなう大規模土地改変を地理的に復元したい。
既存の研究:江戸城下町の形成過程、推移、あるいは城下町の構造、土地利用変化
江戸時代における大規模な土地改変は、文献の記載から存在が早くから知られていたが、その実例・実態は、東京都心部における江戸遺跡の発掘調査の進展を待つ必要があった。多くの江戸遺跡の調査で、火災等による整地の繰り返しの痕跡が認められている。
最近では事例も増えてきたが、これを集成し、地理・土木・あるいは考古学と言った学問的関心からその時間的空間的なあり方を、検討した例は少ない(栩木,1997、後藤,1998、北原,1999)。江戸時代、江戸の城下町では頻繁に土地利用が変化した(高橋,2000など)。土地利用変化と同時に、土地改変も頻繁に起こっていた。そのような、土地改変の実態を、江戸全体という地理空間において広く把握し、時期的推移やその性格など、意味合いを明らかにすることが重要である。江戸の研究において、このような考古学・地理学的研究を進め、反映させることは、江戸時代史の全体的究明にあって意義有ることと考える。
初期の江戸:寛永江戸図→幕末まで城下町は郊外へ拡充を続け、スプロール現象を起こしている。(正井泰夫の復元図など)
考古学的に最も明確な、明暦の大火を境に二分した。18世紀、19世紀は事例に時期的まとまりが少なく細分が出来ていない。
徳川家中による普請。本丸の拡張、道三堀造営など、いずれも小規模で発掘調査で広範に確認された例に乏しい。
慶長の天下普請(1603〜1614年)。江戸城下の拡張がなされた(神田山崩し、豊島洲崎の埋立)。文献記録にあるが、発掘での確認例はごく少ない。
平川の付け替え(神田川、内堀普請、外堀普請)。普請とこれに伴う各種敷地割りの移転が確認されている。
明暦の大火(1657年)で、江戸のほとんどを焼失する『むさしあぶみ』では死者10万2千余人。大火後の再建。では、火除地の大幅設定(御三家屋敷を外堀の外へ移転)、敷地割りの移転と本所・深川など、外堀の外への拝領地の拡大が認められる。17世紀後半に造成された事例が多い。
災害の頻発(火災、地震、洪水等)。災害による整地、改築。あるいは武家の拝領地替え(代替わり、役替わり)の移転による整地、改築の事例がある。ただし、拝領地替えが災害を契機に行われることもあり両者の厳密な分離は難しい。
安政の江戸地震が、幕末、江戸時代最後の大災害。
江戸では、寛永年間までのI期に大規模な土砂の移動をともなう土地開発が実施され、城郭と城下町の整備がなされた。これは大規模土地改変をさほどともなわずに城下町の範囲が拡大するII期と対照的である。I期の城下町整備の事例としては、四谷周辺の外堀の造成や、筆者も調査に携わった毛利家の屋敷地造成がある。毛利家では、屋敷範囲内の台地が大幅に切り崩され、敷地を全体的に整地した上で屋敷が建てられていた。また造成時に発生した多量の残土は、その大半を屋敷周辺の街区造成に転用することで処分していた可能性も指摘される。
主な大名の屋敷地拝領は慶長〜寛永年間に集中しており、城下町各所での土地利用が幕府の何らかの意図の下に決められていたことは間違いない。これは外堀普請の大規模な土地改変にともない、大名屋敷等が外堀という城郭設備と一体となって造成されていることからも明らかである。すなわちI期の城下町整備にあっては,幕府による一連の開発計画が存在し,毛利家の屋敷における土地改変もその一端として実施されていたことが理解されよう。
またI期と、II期の城下町の拡大過程における違いも注意される。明暦の大火で被災した屋敷等の再建時の土地改変規模は、I期の場合よりはるかに小さい。またII期の遺跡の分布範囲や土地改変規模はI期と異なる点も多い。これらは城下町がI期で一通り完成し,II期では大規模な土地改変をI期ほど必要としなかった,言い換えれば開発の質的転換があったためと考えられよう。
山路閑古さんは『古川柳』(岩波新書、1965)のなかで、
安永、天明の頃古川柳作家として活躍した小山雨譚が、その所蔵本「川柳評万句合」に頭註を書き入れたものを、雨譚註万句合とよんでいる。その原本は国会図書館に保存されているが(中略)雨譚註の研究によって、従来判明しなかったような難解句も大体判るようになった…
とのべている。やや補足すれば「川柳評万句合」は柄井川柳が募集した付句のうち、採用されたもの(勝句)を板行したもの(一回に数枚〜十数枚)で、「雨譚註万句合」は、これを購入するか、寄贈をうけて製本し、上部の空白に簡単な註をほどこしたものである(14冊の由)。
山路さんは原本の写しなどで研究会を行われたようだが、幸い1974年に有光書房から活字本として刊行された(註のある句のみをあつめたもの)ので、だれでも目にすることができるようになった。このなかで、興味ふかい句と註をみつけたので紹介したい。
とつくりへ一チ字書イてるさわかしさ安永七年梅(八月十五日開キ)3枚目表27
雨譚註−師走の酒屋
句は、徳利に字を書いているとしているが、「騒がしさ」とあるから墨書ではなく、鏨状のもので点刻したいわゆる「釘描き」のことであることが推測される。
そして雨譚の註が「師走の酒屋」となっていることから、歳暮から正月の需要をひかえて、店中総出でコンコンと徳利を刻んでいたことが知れるのである。これとは別に専門の刻銘職人がいて、そこに「外注」する酒屋があったことも考えられようが、少なくとも小山雨譚は、刻銘はそれぞれの酒屋で行うものと理解していたことは間違いなかろう。
また年末には、貧乏徳利のような小口の需要もふえると思われるが、同時に新年をむかえるにあたって、新しい徳利への切り替えを心がけていたのかもしれない。
柳亭種彦が書いた洒落本(吉原など遊廓・遊女をあつかった読本)『山嵐』(文化五年序)に、釣佛壇には院號の無い戒名が三四まい、うちだとゑりつけたる徳利に、三文花そなへしは云々とある「ゑりつける」は「襟白粉」と同じ意味で、遊女があごから首にかけて厚く白粉をぬりつけることから、この場合徳利の肩の部分に描かれた紋様・文字と解釈できる。
は漢字の山と「入山形」を上下に組み合わせたもので、白鴎高校でみつかった徳利などにこの記号をみることができる(内田とは描かれていない)。
同じ「雨譚註万句合」に、
昌平の外トにはびこる釜のふた 安永七年宮(八月五日開キ)1枚目裏
雨譚註−酒屋内田ノ印
とある。昌平黌校は幕府の学問所(湯島の聖堂)だが、その外に「釜のふた」がはびこるというのは理解しかねる。ところが雨譚註の「酒屋内田の印」でこの謎は解消されるのである。
釜のふたであれば、釜字の上部の「父」であろうし、これがの記号を示していることは明らかであろう。雨譚はこの句を読んで、昌平黌の周囲にこの印がたくさんみられると解釈したわけである。これが、内田屋の本店・支店がこのかいわいに多くあるという意味なのか、あるいは内田屋の顧客がそのあたりに多いという意なのかは判りかねる。
しかし、柳亭種彦が『山嵐』の道具立てにつかい、川柳に詠まれ、また雨譚が「内田の印」と読みとったわけだから、江戸でかなり知られていた酒屋であったことはたしかだろう。
図1 と刻まれた徳利
都立学校調査会『白鴎』1990より
図2『雨譚註川柳評万句合(部分)』
印刷された万句合の上部に雨譚が註を付けている。「紀文」、「孟母三遷」などと書かれているのがそれである。
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