2000年5月16日発行
江戸遺跡研究会
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▼第74回例会の報告
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金子 智
千代田区教育委員会
岩本町二丁目遺跡は、千代田区岩本町二丁目15番地に所在する。この近辺はいわゆる「神田」と呼ばれる地域にあたり、調査地は近世前半には武家地、後半は町人地として利用されていたことが文献上明らかである。発掘調査の結果、近世後半〜近代の比較的遺存状態の良好な町屋跡と、若干の武家屋敷の痕跡が検出された。ここでは特に、従来調査例の乏しい、近世江戸の中心部に近い町屋跡の調査についてご紹介する。
調査地は神田川と内堀、日本橋川に挟まれたいわゆる「神田」地域に属する。地形的には東京低地の縁辺にあたり、水気の多い地域である。調査時に湧水こそ少なかったものの、全体に湿潤であったため、有機物の遺存状態は比較的良好であった。
調査地南方には日本橋を中心とした古くからの町人地が広がるが、当地は近世初頭には、元誓願寺前と呼ばれる武家屋敷地帯に属していた。東方200mほどのところには、江戸遺跡の最初の本格的調査として知られる都立一橋高校内遺跡が所在する。こちらは当初寺社地として利用されていた場所で、同様に近世後半から町屋として利用されている。
遺跡地が町屋に転換するのは享保3年(1718)のことで、当初若干の異動があったものの享保5年(1720)までには久右衛門町二丁目代地(大和町代地の一部を含む可能性あり)に確定し、幕末以降まで継続して町屋として利用されている。
ちなみに調査地は、近世の地割を比較的良好に残す場所で、当時の道路がほぼ現在の道路と合致し、その間に挟まれる形で存在した町屋をイメージしやすい状況であった。
試掘時の所見により、調査地には2m以上にわたって厚く盛り土がなされ、複数の生活面が存在することが予想された。このため、明らかに現代以降のものと考えられる地表下約1mまでについては機械掘削とし、それ以下は適宜機械掘削を交えながら手作業で徐々に掘り下げを行った。ちなみに現在の地表は標高(T.P.)約3.4mである。
調査にあたり、先述のごとく近世の地割が比較的良好に残されていることから、当時の推定町割ラインに近くなるように、敷地東側の現道路のラインを基準線とする形で、敷地北東角を起点に4m角のグリッドを組んで調査を行った。既存建築の基礎部分を除いた調査対象面積は約810m2である。調査は大きく3つの面に分けて遺構確認を行った。上からI面・II面・III面と呼称し、それ以下の遺構は一括してIV面とした。実際の生活面は、より多数にわたるが、(各面が10数cm程度の盛土しか有さない場合も多く)、調査時に厳密な識別は困難であったため、いくつかの面を同時並行的に調査するという方法をとった。
各面はおおむね次の時期に該当する(後記は整理段階で設定した時期区分)。
I面 | :幕末以降 | 4a〜b期 |
II面 | :近世後半(町屋段階後半) | 3a〜b期 |
III面 | :近世後半(町屋段階前半) | 2a〜f期 |
IV面 | :近世前半(武家地段階) | 1a〜d期 |
このうちIII面とIV面の境界は、町屋に転換した享保3年(1718)にあたる。
以下、ここでは武家地段階の調査については割愛し、本遺跡の主体である町屋段階、2期〜4期(III面〜I面)の遺構について紹介する。
調査の結果、複数の造り替えを有する下水溝列によって東西に短冊状に区切られた敷地と、その内に配された礎石立ちやいわゆる算盤地形(おそらく土蔵)などによる建物跡、および多数の埋桶・埋甕などが検出された。絵図などに見る、方形の敷地を縦に細長く区切って利用している町屋の様子が明らかとなったのである。
今回の調査で検出された本遺跡の町屋跡において特徴的な点を以下に紹介する。図版の方に比較的様相のわかりやすい2期の遺構について変遷を示したので、参照いただきたい。
遺構はいずれも盛土上に構築されている。盛土は大名屋敷段階では関東ロームを含む数10cmにおよぶ厚いものであるが、町屋段階では10cm程度の薄い層状となる。
町屋段階の盛土は灰色の粘土を用いており、おそらく水成堆積物と思われる。盛土層は多くの場合、下部に焼土層をともない、その上部に薄く貼られるように存在している。おそらく火災の後、瓦礫の後始末をその場で行い、平らにならした上を、持ち込んだ粘土によって地形しているものと考えられる。焼土層には瓦を中心として数多くの被熱遺物が含まれており、調査時に取り上げた遺物の過半を占める。
調査区内には最大5つの下水溝のラインが存在し、北から順に第1列〜第5列と仮称している。このうち最も北側で検出された第1列には、18世紀後半以降、上水井戸がともなっており、そちらへ向かってT字状の分岐が見られる。このラインはもっとも重要な排水施設であったと考えられ、改修の痕跡が著しい。5つのラインのうち3本は一時的に石組(うち2本は一辺が土留板)となるが、それ以外は一部を除き幅15cm程度の木組溝を利用している。
各時期の認識は主としてこの下水溝の重複関係により判断した。下水溝の位置が変わらず、同一面での修理と考えられるものについては同時期にまとめている。ちなみに、これらの修理も含めれば、最も多い第1列では、少なくとも14回の造り替えが確認される。
下水溝で区切られた区画内には建物が展開したと考えられる。明瞭に規模を明らかにする建物は少ないが、玉石を主とする礎石は全面にわたり数多く存在する。ちなみに確認されるすべての建物で、1間=6尺の田舎間が用いられている。
下水溝の間の距離は、いずれも田舎間4間以下であることから、建物もそれ以下の規模に限定されるようである(基本的に下水溝を跨ぐ建物は確認されていない)。規模のわかるものとしては2期に4間×2間半の規模のものが確認されている。
遺構として比較的わかりやすいものに、算盤地形などの堅固な基礎を有する建物跡があり、土蔵跡と考えている。土蔵跡は調査地内で6ヶ所計10棟が確認されている。基本的に縦長の区画の中央に偏って所在する。調査区中央の1ヶ所では、最低3回の改築が確認され、それぞれ基礎構造が異なっている(後述)。
建物の配置から見ると、細長い敷地割両端の、道路に面する部分を生活空間(店舗?)として利用し、奥に土蔵を配するという構成が推定される。一部では下水溝と礎石建物の間に板敷や、砂利などによる道路状の部分が見られ、敷地の奥部分との通行に利用されていたと推定される。
町屋のすべての時期にわたり、桶・甕の埋設が見られる。埋土や配置から見て、その大半は便所として使用されたものと考えられる。
配置的には下水溝に沿って、区画の脇に寄って存在する場合が多い。切り合いは全体に少なく、作り直しの際はまったく同じ場所に造られるか、あるいは意図的に避けて構築しているようである。
上部構造、および建物との関連を明らかにするものは未確認であるが、配置から見ておそらく室外に存在したものと見られる。
胞衣埋納施設は調査地内で計25組が確認されている。また包含層や遺構内からも胞衣皿と思われる大型かわらけが少なからず出土していることから、本来はより多数が存在したものと考えられる。時期的には幕末のものが多いが、一部は18世紀後半以前に遡るものと思われる。
配置は、埋桶や埋甕同様、区画のなかでも偏った位置に存在する場合が多いが、特に法則性はない。民俗や一部調査例では門口に埋納する例が知られるが、そのように判断されるものも未確認である。なお、埋桶・埋甕に明らかに隣接して検出されるものは少ない印象であった。
今回の調査では町屋段階に属する大規模なゴミ穴というものは皆無で、土坑も一辺1mほどの小規模なものが散見される程度である。またゴミ穴に転用されうる地下室などの施設も少ない。これは区画が密に利用されているため、そのような施設を構築するスペースがなかったためと考えられる。
以下、現在までに整理された時期ごとに遺構の様相について述べる。1期は先述のとおり武家地段階であるので、省略する。
2期前半には、5本の下水溝列のうち南端の第5列は未確認である。他の4本のうち第1・3・4列では一部で石組を配したものが使用されている。
2期後半には、枝溝を多数有し、板敷を伴う木組溝が目立つ。下水溝第2列はほどなく消滅し、第3列もほどなく消滅した結果、調査地内では第1・4・5列の3列が残される。第5列は一時期のみで、本時期末には消滅するため、3期以降は第1・4列の2系統のみとなる。下水溝第1列では上水井戸に向かって分岐がなされるようになり、上水井戸の利用が開始されたものと考えられる。また第2列消滅後、第1列下水溝は東方(下流)で鈎形に屈曲するようになる。建物は玉石を用いた礎石列が散見され、下水溝の石組の転用と考えられる間知石を用いたものも第1列の脇で確認されている。土蔵は本期前半に遡るものが初現と思われ、後半には各所に構築されるようになる。
本期を通じて胞衣埋納施設は少ない。
第1列の下水溝が北方に移動し、北西部に上水溜桶の木枠が構築される。第1列下水溝の流路は2期後半と同様であるが、屈曲の流出部分で一部板石組溝が利用されている。第5列は前代に消滅するが、第1列同様に第4列が屈曲し、東端でほぼ同じラインを流されるようになる。第4列の脇には西方から上水竹樋が延び、南方に折れるが、一度屈曲の地点を移動させている。北西部の上水井戸は、井戸手前に溜桶を伴い、流入路を南へ移動させながら継続利用される。建物は前半に玉石を用いた4間×2間半のものが、調査区東方の下水溝第1列屈曲部と第4列の間で確認されている。土蔵は前代のものが引き続き利用されていると考えられ、調査区内に4棟程度は同時存在していたものと推定される。ただし上部は改修されている可能性が高い。胞衣埋納施設は徐々に増加する。
第1列の下水溝は再び南方に移動する。最終的に下水溝はこの第1列および第4列のみとなり、3期同様に鈎形に屈曲する。上水井戸は引き続き利用され、5期には径5cmほどの鉄管が導管として利用されている(近代水道?)。埋桶は本期のものが最も多く確認されている。胞衣埋納施設も3期に引き続き多い。
ここでは主な遺構について述べる。
そのほとんどが木組溝で占められ、一部に石組溝・板石組溝が利用されている。
木組溝は細長い底板の下から、側板を釘止めした構造のものが大半である。厚さは側板が15〜20mm、底板が5〜15mm程度のものが多いが、腐食のためはっきりしない場合が大半であった。側板には半間ほどの間隔で切り込みが施され、棒状で側板との組み合わせ部分に切り込みを入れた支え木がはめ込まれている。蓋は遺存例が少ないが、確認されたものはいずれも底板と同様の細長い板で、釘がないことにより底板と識別できる。一部の木組溝では底板を細かい材による横貼りにしたものがある。また3期の1例のみであるが、側板を部分的に板石で組んだものが存在した。
19世紀代の木組溝は屈曲部分に方形の枡が用いられている場合が多い。一辺50cmほどのものが主体だが、規格は一定しない。木組溝は入口・出口ともに枡の上部に付されており、砂などを溜める目的のものと考えられる。一方、18世紀代のものは枡を用いずに屈曲させるものが多く、枡はあまり用いられないようである。
各時期にわたり、木組溝には枝状に小型の木組溝が付される(以下「枝溝」と表現)。枝溝は幅5cmほどのものが多く、長さはまちまちである。長いものでは本管に近い部分が太く、途中から細くしているものが見られる。これらは本管の側板に切り込みを入れ、注ぎこむ形で設置されている。
遺存状態の良好な木組溝の脇には、板敷が伴う例が多い。板敷は木組溝に直交する方向に5cm角程度の角材を敷き、その上に幅20cm程度の板を敷いたものである。枝溝は木組溝の脇では板敷の下に潜り込むが、やや離れると開口する形となる例が見られた。
2期に石組溝の例がみられる。側板の部分を間知石などの石で固めたもので、石の下部には胴木を敷いている。両側を石組にしたもの1例のほか、片側を土留板としたもの2例がある。いずれも底板はない。
これらの下水溝は改修の際に、側板が除去され、底板のみが残存する場合が多い。石組を用いたものでは裏込石のみ残るものや、一部分のみが残されたものが多い。
建物はいずれも礎石建物である。最も多いものは扁平な川原石を用いたもので、径20〜30cm程度のものが中心である。上面のレベルや表面の状態から見て、直接柱を支えたものと考えられる。一部の礎石は下方に2〜3本の杭を打ち、根固めとしている。2期の礎石の一部には間知石を転用したものが見られ、これらは形状・石材からみて石組溝が撤去された際、石を再利用したものと考えられる。
土蔵はいくつかの基礎構造のパターンが見られる。4期(近代)のものは、溝状の掘方に割石を充填したもので、その上に切石による礎石を置く構造である(3例)。この他に枕木−胴木による算盤地形の上に逆位の樽を据え、礎石を乗せたもの(1例)、あるいは杭−枕木−胴木による算盤地形の上に切石を配し、礎石を乗せるもの(2例)、主な基礎石を杭で支え、その間を割石で固めたもの(1例)などのパターンがある。調査区中央では1.杭なし算盤地形+樽→2.算盤地形+切石→3.溝状掘方割石充填の3つの土蔵が重なっている箇所が認められており、長期間にわたり同じ場所に土蔵が構築され続けたことが確認された。算盤地形に利用される材には転用品が多く、鋸歯状の切り込みを有する柱など、先行する土蔵に用いられていたと考えられる部材が目立つ。
埋桶は上部の欠けたものが多く、一部は火災による炭化の見られるものもある。埋桶は計40〜50cm前後のものが多いが、65cmほどの大型のものも若干見られる。埋甕も上部が破壊され、破片が内部に落ち込むものが多い。口径には大小があるが60〜80cm程度と推定されるものが多い。ともに内面に白色〜褐色の付着物を有するものが散見されることから、その大半は便所と考えている。
先述のとおり非常に少ないが、方形の枠内に横板を貼り、角を杭で支えるタイプと、木箱状のものを埋置したものがある。
神田上水を引き込んだ竹樋−上水井戸1系統と、井戸位置不明の竹樋1系統が確認されている。上水井戸は調査区北西部に存在するが、ここはほぼ町屋の敷地全体の中央部分にあたることから、共同井戸であったのではないかと考えられる。井戸には竹樋が注いでいるが、手前のところに蓋を有する樽を使用した溜桶が配されている。そのうち一つには長方形の頑丈な板貼りの木組みがなされていた。井戸に注ぐ竹樋は、少なくとも4回の作り直しが行われており、流れ込む方向が徐々に南へずれていくが、井戸は同じ場所に造られ続けている。最終的には鉄管により導水されており、埋土にガラス板を含むことから見ても近代後半まで開口していた可能性が高い。別系統の井戸不明の竹樋は第4列下水溝の脇を通り、途中で南に屈曲する。屈曲位置をずらす形の造り替えが見られる。
大型のかわらけを合わせ口にして埋納したものである。掘方はほとんど明らかにできなかったが、確認できたものはいずれも浅く円形に掘り窪めただけのもので、特殊な構造は見られず、また共伴遺物も見られない。皿自体はいずれも20cm弱のほぼ同型同大である。近代の資料で内面に、「壽」刻印を施し、雲母粉を塗布した例があるが、近世のものには刻印は見られない。
本遺跡では町屋、とりわけ江戸町人地の中心部に近い地域での町屋に関する、数多くの知見を得ることができた。当初、本遺跡地は(日本橋界隈などの)古い町人地の中心からやや外れていることから、土蔵など頑丈な建築遺構は少なく、簡素な長屋状のものが密集するだけではないか、というイメージで調査を開始した。しかし、想像以上に建築物(土蔵も含め)はしっかりと造られており、下水や上水も頻繁に修理がなされ、利用されていたことが判明した。また一方で、狭っ苦しい、混み合ったイメージという点では、ある程度裏付けられたという印象もある。
現在、本遺跡は遺構・遺物ともに整理半ばの段階にある。今回は詳しくは取り上げなかったが、注目すべきものとして、幕末に近い時期(3期)の鍛冶跡と推定される遺構や、鞴の羽口や土錘などの生産関係遺物も検出されている。堅固な土蔵跡が何を納めるのに使用されていたのかというような問題も含めて、当地での生活の実体を考える上で重要である。
町屋の土地利用については、建築・文献の方面からもいくつかのアプローチがなされている。発表時にも下水溝の配置と、実際の敷地割との関係についてご指摘を受けたが、これらの問題は文献とのリンクによって明らかにしうる部分が大きいと考えられる。今後ひととおり文献も参照しながら、調査成果を改めて検討していきたい。
遺物では、被熱の目立つ陶磁器・土器類、土製品や玩具、あるいは瓦など多岐にわたる資料が出土している。今後これらの検討も交えて、あらためて町屋構造の復元に取り組んでいきたい。また一方、遺構・遺物両面からこれまでの武家地や、あるいは郊外の町屋と比較して、「久右衛門町二丁目代地」自体(あるいは周辺の町屋も含めて)の独自性を導き出せれば、と考えている。
今回の調査では、できる限り近世−近代の境界線を設けず、町屋の変遷を一つの流れとして捉えたいと考えたが、実際の調査成果を見ても、そこには必ずしも大きな溝はないように思えた。すくなくとも明治初年までは、近世とさほど変わらない生活が営まれていたのであろうというのが率直な印象である。
近年、ようやく町屋の調査例も増加しつつあり、資料もまとまってきたように思える。今後、特に中心部での町屋の調査が継続的に行われ、本遺跡との比較検討がなされることに期待したい。
付記:発表の際、木製樋状の下水を「木樋」「枝樋」と表現したが、いわゆる「上水木樋」と誤解されるおそれがあるため、ここでは「木組溝」「枝溝」と名称を変更した。また「石垣樋」という名称についても「石垣」という表記がかならずしも適当ではないという観点から、「石組溝」と改めた。この他の遺構名称についても、必ずしも適当でないものもあるのではと思われる。今後改めて検討していく所存である。
寺島 孝一
江戸遺跡研究会世話人
第一回では、丼にふれた文献のいくつかを紹介したが、今回は、それらの文献に書かれている丼に対応するとおもわれる絵画のいくつかを紹介したい。前回を参照しながらご覧いただければ幸いである。
前回の文献で、どうも「どんぶり」に二種類あるらしいことがおわかりいただけたと思う。一つは、「外食産業」で使われたもので、『守貞謾稿』にややくわしく説明がある。それによれば、二八うどんは皿もりで、何らかの具(種)が入るものは、漆塗りの椀(大きめの椀で、図ではどんぶりにみえる)にもり、二八そばでは、今でいう「もり」または「ざる」では、竹の簀子をひいた容器にもり、汁をかけた「かけ」や、これに種を加えた(天ぷら、花巻、しっぽくなど)ものは、陶器のどんぶりに盛ったという。また、鰻飯もあさがお形の丼にもり、割り箸(引裂箸)がそえられる。『世のすがた』にみえる「茶碗もり」の蒲焼もこのようなものだったのだろう。『けんどん争ひ』には、「今の一膳飯、丼飯の類、馬かた、駕かき、ぼてふりの商人等」が食べたものとあるから、決して高級な食器であったはずがない。
これに対して、『俳諧古文庫』にみえる「丼」は、あきらかに高級な器として扱っており、銭屋五兵衛の『年々留』にみえる「丼」も値のはるものである。
今回あげた絵画は、ほとんど全てが後者に属するもので、庶民の手にする「丼」は見つけられなかった。
場面は、花街などでのもてなしの場面がおもで、大きな陶器の鉢(朝顔形のものが多いが、角鉢も見られる)と、蓋付の大皿(漆器が多いように見うけられる)が、盆や三宝のような台に載せられている。
11の右下にみえる器は、『寛天見聞記』にある「盃あらひとて、丼に水を入、猪口数多浮め楽しみ」にあたるものだろう。 (つづく)
テーマ: | 『埋もれた多摩の産業遺産』 |
日 時: | 6月25日(日)10:00〜17:00 |
会 場: | 都立多摩社会教育会館 3F研修室(立川市錦町6-3-1) |
(西国立駅より徒歩10分) | |
主 催: | 多摩地域史研究会 |
資料代: | 1,000円 |
内 容: | 近世末から近代における多摩地域の土器生産(内野 正) |
江戸後期における青梅の焼き物(久保田正寿) | |
水車にみる用途の移りかわり(小坂克信) | |
多摩の近代化と煉瓦(清野利明) | |
多摩川の砂利採取(三村 章) | |
問合せ: | 042(574)1360(事務局 たましん地域文化財団内) |
日 時: | 7月8日(土)10:30-17:00・9日(日)8:30-12:30 |
会 場: | 長浜ロイヤルホテル(JR長浜駅徒歩15分) |
主 催: | 長浜文化財シンポジウム実行委員会 |
内 容: | 近世城下町の成立過程(小島道裕) |
長浜城下町の構造(丸山雄二) | |
大阪城下町の構造と変遷(松尾信裕) | |
日本における近世陶磁器の成立(鈴木重治) | |
長浜城下町出土遺物(稲垣正宏) | |
中世末期から近世初頭における土器・陶磁器(森島康雄) | |
問合せ: | 0749(64)0357(長浜文化財シンポジウム実行委員会事務局) |
テーマ: | 『四国・淡路の陶磁器−生産と流通−』 |
日 時: | 7月15日(土)13:00-17:00・16日(日)9:30-16:00 |
会 場: | 徳島大学総合科学部 3階310教室 |
主 催: | 考古フォーラムくらもと・徳島大学総合科学部歴史学研究室 |
内 容: | 富田(森下友子) |
尾戸、能茶山(浜田恵子) | |
四国窯と信楽(稲垣正宏) | |
平焼レクチャー(野口早苗) | |
平(北条ゆうこ) | |
源内、大谷(日下正剛) | |
中山焼(森清治) | |
京阪神の大谷焼製品の様相(川口宏海) | |
江戸の四国産陶磁器出土の様相(堀内秀樹) | |
1666年紀年銘木簡共伴一括資料の紹介(勝浦康守) | |
1999年度常三島遺跡の発掘調査成果(橋本達也) | |
四国窯陶磁器レクチャー(大橋康二) | |
問合せ: | 088(672)4545(徳島県埋蔵文化財センター 日下正剛) |
日 時: | 2000年7月1日(土)13:00〜17:00 |
内 容: | 「甲府の近世遺跡(仮題)」 志村憲一(甲府市教育委員会) |
「上州吉井の火打金と火打石」 大西雅広(群馬県埋蔵文化財調査事業団) | |
「京都市内の近世遺跡」 能芝 勉(京都市埋蔵文化財研究所) | |
懇親会: | 17:00〜 |
会 場: | 江戸東京博物館 会議室 |
(例年、大会を行っている会場です) | |
交 通: | JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分 |
問合せ: | 江戸東京博物館 |
03-3626-9916(小林・松崎) | |
東京大学埋蔵文化財調査室 | |
03-5452-5103 (寺島・堀内・成瀬) | |
江戸遺跡研究会公式サイト | |
http://www.ao.jpn.org/edo/ |