向岡記碑はのちの水戸藩主コ川業齊昭が揮毫した石碑で、不忍池、忍ヶ岡を望む向ヶ岡の水戸藩駒込邸の庭園に建立されました。石材は茨城県常陸太田の真弓山産の寒水石(大理石)で、碑文には向ヶ岡の歴史、文末に文政11年(1828年)に向ヶ岡の景観を詠んだ齊昭の歌が刻まれています。また、石碑の建立と名所の創出についての記述は、齋昭が藩主就任後に水戸で行った水戸八景碑の建立に繋がり、藩政への意気込みを読み解くことができます。
明治5年(1872年)、駒込邸跡地は駒込邸の立地した向ヶ岡と碑文の「夜余秘(やよい)」から向ヶ岡弥生町と名付けられます。明治17年(1884年)この町から発見された土器は町名から「弥生町式土器」と呼ばれるようになり、後に「弥生時代」という時代名が定着、縄文時代に続く時代名となります。駒込邸の一角は浅野侯爵邸となり、碑は水戸コ川家から浅野家へ引き継がれます。戦後、浅野侯爵邸は東京大学の敷地になり、構内の開発に伴い碑は移転、酸性雨によって碑文は読みずらくなり割れが発生、排気ガスによって寒水石は黒ずんでいました。
2005年、4名の有志で結成した「向岡記」碑研究グループは、碑の酷い現状を何とかしようと碑の調査研究を開始。後に様々な方々のご協力を得て2008年、東京大学創立130周年記事業「知のプロムナード」で保存修復と展示を実現しました。2011年、東京大学総合研究博物館で企画展示「弥生誌 向岡記碑をめぐって」が開催され、2014年、文京区指定文化財に指定されました。
2011年3月11日の東日本大震災では碑に被害はなく今に至っています。水戸市弘道館、齊昭建立の弘道館碑は向岡記碑と同じ寒水石製で、震災で崩壊、保存修復を終了し公開されました。碑の保存修復は写真、拓本を用いて行われました。近年3D 測量の文化財への応用が盛んで、東日本大震災で被災した瑞龍山水戸藩墓所の保存修復では現状を把握するための3D 測量が積極的に導入されています。
向岡記碑は酸性雨でできた空洞を樹脂で埋め強化したものですが、地震の規模によっては崩壊の可能性があります。万が一破損した場合、碑文が不鮮明なため、弘道館碑のように写真と拓本を用いて修復するのは困難と考えられるため昨年、向岡記碑保存周知化研究グループを結成し、碑の3D デジタル化と現在の保存状態の調査を行いました。
デジタル化は文化財が破損に備えるための記録保存という側面もありますが、移動不可能な石造文化財をデジタル化することで活用の広がりが期待されます。今回、「向岡記碑の研究」と題して、これまでの研究成果、保存修復、向岡記碑の3 D デジタル測量と文化財への利用について、研究成果報告会を行います。
本書は、公益財団法人朝日新聞文化財団 文化財保護助成「コ川齋昭建立「向岡記碑」の3D デジタル測量による記録保存と碑の周知化への取り組み」原祐一(研究代表者)、堀内秀樹(東京大学埋蔵文化財調査室)、石原道知(武蔵野文化財修復研究所)、田子寿史(アイテック)による研究成果報告書です。
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