参加記(江戸遺跡研究会会報 No.104、pp.13-14)


「江戸の上水・下水」が語るもの

岡村弘子(名古屋市博物館)

 今大会のテーマは、「上水」だけでも「下水」だけでもなく、両者を敢えてあわせて解明することで、江戸の水系ネットワークを明らかにするというねらいがよく伝わるものだった。筆者も、城下町名古屋における「水のみち」をつかみたいと思い、企画を行ったことがある。当時の重要なライフラインであったこれらの機能・体系は、都市整備のレベルを示すものでもあるし、また利用や運用の実態を解明することは、当時の生活の実態を明らかにすることにもつながる。そしてインフラ整備者と利用者の考え方が、必ずしも一致しているとは限らない。整備者の意図や想定を越えた利用の実態があったはずであり、そのずれが示すものは何なのか…?

 以上は筆者の個人的な問題意識であったのだが、実際当日の報告では、特に浮き彫りになった問題がいくつかある。「玉川上水」以前の水系ネットワークの存在、上水・下水の分別定義とそれぞれの末端部分の実態、武家屋敷地における敷設の意図などである。

 その中でも、特に興味深かったのが、後藤氏や栩木氏によって報告された、17世紀前半の上水遺構をどのように考えるかという、いわゆる「玉川上水以前」の問題である。これら各地域や藩邸といった、ある程度限定された圏内で構築されていた初期上水遺構は、どのような実態をもち、どのように「玉川上水」へと継承されていくのだろうか。討論の中では、〔1〕初期上水遺構が「玉川上水」のネットワークに組み込まれていく、〔2〕既存の上水遺構とは別に「玉川上水」のネットワークが構築される、という2つの想定が浮かんできた。実態は、どちらかに限定できるものではないだろう。ただ、幕府の上水整備の当初目的や意図の解明は重要である。今後は、このような視点から遺構の構造や時期から技術的な変遷を確認することが必要になるだろう。

 名古屋城下にも、寛文3年(1663)、城下西部の一帯に上水道が敷設される。その遺構は幅下小学校遺跡、貞養院遺跡(いずれも名古屋市西区)にて検出されている。いずれも、幹線となる大樋から各家に引き込まれた末端部分であり、古い遺構では17世紀末の竹樋が検出されるが、以後新しい部分では木樋に移行している様子がうかがわれる。また、竹樋の継ぎ手や枡、汲み上げ用と思われる桶枠も発見されている。これら上水施設の利用実態については、水道敷設地域であった納屋町の商家「師崎屋」の記録から詳細を知ることができる。それによると、享保年間より上水を利用する家は「水銀」を徴収された上、新規の敷設はもちろん、修理や管理に必要な費用も自己負担であったことが分かる。さらに、「水井戸」と呼ばれた汲み上げ井戸の構造や、それらが約20年で腐朽したための取替え工事の際に、設置位置から樋の材質、寸法まで図入りで記されている。さらに作業に要した日数、職人まで残されており、これらからは上水利用者の実態を垣間見ることが可能である。

 また、近年「享保十四年名護屋城下之図(愛知県図書館蔵)には、上水の幹線と城下の排水路」が記され、その排水路は全て「武家さらへ」「町方さらへ」「自分さらへ」と色分けされて示されていることが分かった。絵図内には浚い分担の変更を示す付箋も付けられており、城下の上下水をあわせて管理するための絵図であったことが推測されている。今後の課題として、このような藩や幕府が残す管理側の史料と、発掘調査での成果や上記の師崎屋の記録など、利用者側の実態を示す情報とをあわせて精査していくことが必要になってくると思われる。実際に検出される遺構が、設置者の幕府や藩に残る史料の情報と必ずしも一致するものではないだろう。

 その他、上下水道敷設の技術は、当時の土木技術の粋と思われる。こうした技術が、江戸だけでなく、名古屋をはじめとした地方の城下町に伝えられ、実際に施設完成に導く根幹にあったことは疑いない。上水・下水に関わる普請の技術者はどこを発祥とし、どのように全国に広がっていったのだろうか。それを解く重要な鍵は、やはり江戸の上下水にあると考えている。そして都市における上下水道のもつ意味を捉えなおす試みが必要になるだろう。「江戸」をかたちづくる骨格が、上水・下水をとおして見えてくるような、展望もあるが浮かび上がる課題も大きいと感じた。


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