参加記(江戸遺跡研究会会報 No.104、pp.9-12)


江戸遺跡研究会第19回大会「江戸の上水・下水」に参加して

毎田佳奈子(港区立港郷土資料館)

 2006年1月28日(土)・29日(日)の2日間、台東区生涯学習センターで行なわれた江戸遺跡研究会第19回大会に参加しました。衛生的な生活を送るために欠かせないインフラである上下水道には、江戸という都市の遺跡に関わる以上は、多かれ少なかれ関わらざるを得ません。私も港区内の遺跡に携わるようになってから、上下水道関連の遺構を頻繁に目にするようになりました。自分が調査で感じたことと、どこが同じで、どこが違うのかいうような漠然とした興味を持って2日間の大会に臨みました。

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 今回の大会は考古学のほか、建築史学・文献史学を専門とする方々の発表が行なわれ、各立場からの異なる視点から、上水・下水のさまざまな事例や今後検討していくべき論点などが明らかになりました。

 まず、玉川上水以前の上水道についてです。上水道は玉川上水から突如として現れるのか、答えはノーです。波多野純氏は、「玉川上水以前」についての上水について取り上げ、建築学的考察から玉川上水以前からあった上水道を整備し、取り込んでいくことで、玉川上水などの上水道を作っていったことを指摘しています。発掘調査においては、まだまだ事例は少ないもののその時期の遺構が発見されており、後藤宏樹氏が東京駅八重洲北口遺跡で発見された、玉川上水以前の上水である可能性のある、直方体の切石を組んで作られた石組溝を、栩木真氏が地下鉄南北線関連工事に伴う事前調査で発見された大形木樋を紹介しています。

 玉川上水以降の上水道については、発掘調査の事例が増えつつあり、今回の大会では千代田区・新宿区・港区・中央区・台東区の遺跡が取り上げられました。斉藤進氏は発表のなかで、港区汐留遺跡で発見された膨大な上水施設の構造の詳細な分類を行ない、構造の違いなどについて言及しています。仲光克顕氏は細かな生活面を捉えることのできた、日本橋一丁目遺跡や日本橋二丁目遺跡を取り上げ、各遺構の消長について、細かな分析を行なっています。

 そして、上水道の目的に関わる発表もいくつかありました。古泉弘氏が基調報告の中で引用していた、神吉和夫氏による上水の江戸における機能分類は、〔1〕生活用水、〔2〕防火用水、〔3〕泉水用水、〔4〕濠用水、〔5〕下水用水というものでした。発掘調査では、〔3〕泉水用水として、後藤氏が千代田区飯田町遺跡の事例を、栩木氏が新宿区内藤町遺跡1次調査の事例を、斉藤氏が港区汐留遺跡の事例を紹介しています。また、斉藤氏は市谷本村町遺跡の事例について、火除け地との位置関係や地形などから、湧水を水源とする〔2〕防火用水である可能性を指摘しています。

 このほか、上水関連では水源の問題も取り上げられました。湧水を水源としている可能性のある事例として、栩木氏が「馬場下町町屋」や「牛込若宮八幡前旗本屋敷」を、斉藤氏は市谷本村町遺跡を紹介しています。下水道関連では、仲光氏は町屋における敷地境としての役目を持つ下水石組の事例を取り上げています。そして、小俣悟氏が発表された上野広小路遺跡で検出された石組水路は、約10cmもの厚さの板を底板としている、特異でかつ興味深い事例でした。このような考古学的成果を考えていくにあたっては、栗田彰氏の発表で使用されたような、生活風景を描いた錦絵などに、下水道がどのように描かれているのかをもっと積極的に読み説くことも必要と感じました。

 このほか、肥留間博氏は「玉川上水留」の内容を主体とする発表でしたが、御普請の基本的な流れを a 準備、b 起案、c 着工、d 施工、e 完了という5つの段階に分けて説明を行なっています。特に、c 着工の、資材輸送保管のために船河岸(揚場)が定められ、そこで木樋などとして加工される木材の下拵えが行なわれ、車で輸送し、現場で組み立てられていたという具体的な手順に、考古学に携わるものとしては興味を覚えました。

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 上水・下水という上下の問題というのは、焼物における「上手」「下手」と同様に、ここまでが上で、ここからが下というような、はっきりとした区分けが難しいという印象を受けました。後藤氏などが発表のなかで指摘していたように、江戸時代の下水は、主に雨水であり、今のように汚くなかったことも、上下の区別を難しくしているのかもしれません。また、上水道には排出口があることから、どこまでが上水で、どこからが下水、あるいは何を上水、何を下水とするかという判断基準がはっきりとしていないことも「上」「下」があいまいな理由の一つでしょう。

 今回の大会を振り返っていくなかで、上水道・下水道というものを「取水ライン」と「排水ライン」というような、一つのラインとして捉えていくのが良いような気がしてきました。

 取水ライン(上水道)はどこかで排水ライン(下水道)に合流することがあると思われますが、排水ラインは、他の排水ラインとつながることがあっても、そこから再度取水ラインに流入することはなかったのではないでしょうか。また、取水ライン(上水道)が排水ライン(下水道)と接続していない時、上水道に水を排出するはけ口があったとしても、そこから流れ出る水は上水と認識されるのが良いと思われます。そして、斉藤氏の発表にあった市谷本村町遺跡の事例のように、取水ライン(上水道)が枡などで行き止まり、取水口を通して水を外に排出するような場合は、取水ラインは必ずしも排水ラインにつながっていなくても良いのかもしれません。このように上・下水道をそれぞれ一つのラインとすると、栗田氏が紹介していた屋根の上の天水桶は、雨水を利用するための取水ラインと捉えられるでしょう。

 上・下水道に関わる今後の問題点としては、討論の際に指摘のあったとおり、掘り抜き井戸と上水道との関係性が挙げられます。また、栩木氏は新宿区の調査に携わる立場から、良水の得やすい四谷から牛込の地域での上水道の役割について考えていく必要があるとも述べています。上水の質の低下から掘り抜き井戸への移行が進んだという論も含めて、今後議論していく必要があると思いました。

 このほか、用語の使い方の問題が取り上げられました。樋は「ひ」なのか「とひ」なのかという点については、考古学では慣例的に「ひ」という言葉を使っています。このような用語の問題は、2004年に行なわれた江戸遺跡研究会第17回大会「続遺跡からみた江戸のゴミ」の際に、小沢詠美子氏が指摘した「ちかむろ」「ちかしつ」の問題にも通ずるものです。名称は考古学的な造語に陥ることなく、文献等の記載などを参考に、江戸時代に使われていた名称を常に意識して使用する必要があると思いました。

 発掘調査によるあらたな事例の積み重ねが待たれるとともに、現在までに蓄積された上・下水道の発掘事例から江戸の上・下水道をさらに読み解いていくには、波多野氏の指摘したような、江戸という都市が「近郊農村など広い地域を巻き込んではじめて市民生活が営める」という広域的な視点を持つことが今後必要なのでしょう。

附篇《港区内の上水・下水》

 それでは最後に、港区内で発見された(港区調査分)上・下水施設を紹介したいと思います。

 港区内で調査された江戸時代の遺跡では、上水・下水に関連する遺構が多数見つかっています。このうち、報告書が刊行された遺跡について、上水と下水の有無、遺構の簡単な種別についてまとめたのが次の表です。表のなかで、上水としたのは、上水道として認識できた木樋や竹樋、それにつながる枡や桶・井戸で、掘り抜き井戸も上水に加えました。下水は、木組の溝で、屋敷境の役目も持つ石組溝も下水に加えました。表のうち、5遺跡については説明を加えています。

1)近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡

 本遺跡は、地下鉄南北線六本木一丁目駅のすぐ東側に位置しています。地形的には、周囲では最も高い場所にあたり、そこから東側にかけて大きく傾斜していきます。発掘調査では、青山上水に関連すると思われる、木樋を埋設した跡が発見されました。掘り形は、半暗渠・半開渠で、木樋が埋設した状態で検出されています。

2)播磨赤穂藩森家屋敷跡遺跡

 本遺跡は、JR浜松町から北側に約400mのところにあり、近接の遺跡には汐留遺跡があります。発見された上 水施設は木樋・竹樋・枡・井戸などで、ほぼ同じ場所に少なくとも3度の付け替えが行なわれたことが分かっています。また、その付け替えの際に流水方向の変化が起こっており、その要因として廃絶年代などから青山上水廃止にともなう玉川上水への取水変更である可能性を指摘しています。

3) 筑前福岡藩黒田家屋敷跡第2遺跡

 JR新橋駅から西側へ約1.8kmのところにある遺跡で、黒田家の屋敷の北側部分にあたります。発掘調査では、おそらく隣地との境の役目を果たす、間知石の石組溝が確認されています。この溝は、底に長方形の石が敷かれていました。そして、調査区内では掘り抜き井戸が発見されています。

4)芝神谷町町屋跡遺跡

 本遺跡は、地下鉄日比谷線神谷町駅のすぐそばに位置しています。下水木樋と考えられる、天井板を有しない板組の溝が2条発見されました。

5) 麻布市兵衛町地区武家屋敷跡遺跡

 本遺跡は、芝神谷町町屋跡遺跡に程近い、地下鉄日比谷線神谷町駅の北西、約350mのところに位置しています。発掘調査では、青山上水に関係すると思われる、木樋や竹樋の痕跡を残す溝が確認されました。

港区内検出 上下水施設一覧表(港区調査分)


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