鶴

2004年6月28日発行

江戸遺跡研究会会報 No.96

江戸遺跡研究会 http://www.ao.jpn.org/edo/

◇江戸遺跡研究会第95回例会は、2004年5月20日(木)午後6時30分より江戸東京博物館学習室にて行われ、野本賢二氏より、以下の内容が報告されました。

新宿区天龍寺遺跡の調査

野本 賢二 (新宿区教育委員会)

はじめに

 天龍寺遺跡(新宿区133)は、東京都新宿区の西南端にあたり、JR新宿駅から約300m東、新宿区新宿四丁目2番3外地点に所在する。調査地点周辺は、武蔵野台地の一部である淀橋台上の北東部に立地する。調査区内では、近世〜近代期は現地形とほぼ同様の緩斜面であり、概ね東側へいくほど盛土層が厚くなり遺構確認面が顕著となる。旧自然地形は調査区北東隅付近から北東方向へ急傾斜し(最大比高差2m程)、最大で1mにおよぶ淡色〜黒褐色の黒ボク土の堆積が確認された。調査地点東にある内藤町遺跡内の東京都立新宿高校地点では、調査範囲中央部から西側にかけて渋谷川へ連なる埋没支谷の一部が発見されており、本遺跡北東側をかすめていたと考えられる。

 本調査地点は、護本山天龍寺が天和3年(1683)に牛込(現在の新宿区箪笥町、南山伏町、北山伏町、細工町の各一部)から当該地に移ってきて以降、当該寺院の境内となる。明治初年作成の絵図には天龍寺境内は江戸時代と変わらないが、明治10年(1877)の『曹洞宗明細簿』以降の絵図には、境内の東側および本地点を含む北側の一部が境外となっている。

 本調査は、(仮称)新宿4丁目ビル建設工事に伴う事前調査として実施され、発掘調査は平成14年4月11日から同年5月20日にかけて行われた。調査面積は約620m2。遺構面は江戸時代(第3面)と近代に帰属する面(第1・2面)を検出した。第3面は104基、第1・2面は41基の計145基を検出している。

1.第3面

 調査では池(60号遺構)や植栽痕、土坑、井戸が検出されており、これらの配置などからみて、調査区全体が寺の庭と考えられる。植栽痕は池の西側である調査区西半分に広がっており、池と同じく庭を構成するもの(前栽)と考えられる。遺構の主軸方位は、境内図にみえる木戸を踏襲している本調査地点東の南北道路の主軸とほぼ一致する。

 遺物は総点数44,055点を数え、総重量は1,583,290.8gを量る。陶磁器類の製作年代をみると、遺物の帰属時期は17世紀中葉から近代までと幅が広い。主体を為すのは18世紀後葉以降のもので、17世紀代のものは少ない。特筆すべきは、多くの遺構から出土する肥前京焼風陶器の小碗(以下、薄茶碗)を中心とした寺関係の墨書資料である。薄茶碗の高台内に建物の名称が墨書されており、「方」、「方(単)」、「茶」、「茶堂」、「小庫裡」、「ネ」、「小」、「小□」、「衆寮」、「首」、「典座」、「月」、「什」など計14種61(+不明11)個体が確認されている。内訳は、「寺」と書かれた産地不明陶器の土瓶蓋1個体、「典座」と書かれた京・信楽系陶器の半球碗1個体)、「方」と書かれた京・信楽系せんじ碗1個体)、「茶」と書かれた瀬戸・美濃系薄茶碗1個体、これ以外の58個体すべてが肥前京焼風薄茶碗で占められる。修行としての喫茶(行茶)が頻繁に行われたであろう禅宗寺院である天龍寺の特徴を表していると考えられる。

 また、内藤町遺跡と同様に屋号が釘書きされた陶磁器類や木製品など宿場、町屋関係の遺物が多く出土している。

○ 池(60号遺構)

 調査区南東部に位置し、調査区全体の約20%を占める。東西19.5m、南北8.5m以上、確認面からの深さは最大で約0.9mを測る。池の平面形は不整円形や不整形などの複数のブロック(A〜F)から構成されており、これらを合わせた形が「心字」状を呈す。

 池東側中央には中島が築かれ、池北東の岸と中島が土橋で繋がっていた。土橋は正位が逆「く」の字に屈曲している。土橋平面には5箇所に土俵が配され、土層断面図を取った箇所は土俵が縦位に3段重ねてあることが観察できた。土俵列の両側に横板3枚を渡し、それを杭で留め、土俵と板の間に土を入れたと考えられる。なお、東側の杭は細い樹皮付の枝の先をカットした粗雑なものであった。

 Bブロック南東部、Cブロック〜土橋下、Fブロック北半分、E・Fブロックの底部には、平面形が不整形の掘り込みがみられる。Aブロックの井戸(77号遺構)とFブロックの土坑(81号遺構)は、池構築以前の掘削である。

 池の構築材には主に杭が使われ、岸もしくは池中に乱杭状に丸太杭が打たれていた。また、池中には杭列および木組が配されていた。杭は断面角状のものも若干あるが、ほとんどが丸杭であった。

 杭は現地調査終了後、ブロックごともしくは杭列ごとにサンプルを持ち帰り、87点を対象に樹種同定および杭の表面観察を行った。

 樹種同定の結果、内訳はスギ33、ヒノキ(ヒノキ属を含む)18、ネズコ14、マツ属単維管束亜属6、アカマツ4、サワラ3、アスナロ3、スモモ1、モミ属1と同定不能なものとして針葉樹材が4つある。広葉樹であるスモモ以外はすべて針葉樹であった。なお、樹種ごとの配置状況はCブロック北東の一部以外バラバラで、そこに池の変遷過程を窺うことはできない。

 表面観察の結果からは、先端部のカット面に刃こぼれ痕があるものが24本認められた。また、13本には横位に刃物を入れた跡(区分線)が見られた。刃こぼれ痕がある杭の中で、同一と考えられる幅2.1〜2.4mmの刃こぼれ痕を抽出したところ、B・D・Fブロックの池の外周に打たれた杭とB・Dブロックの杭列・木組み、D・Fブロック間の杭列のものが同一と判断できた。上記の杭と刃こぼれ幅が違う杭、刃こぼれ痕が無い杭とを観察すると、その中でも木取りや成形、径など相似するものがあり、それは全ブロックでも検出されている。刃がこぼれたまま使い続けると刃こぼれ痕の幅も自ずと変化することを考慮すれば、土橋とE・Fブロック間の杭列を除く、すべての杭は同時期に構築されたものと考えられ、池構築時に伴うものと推測される。

 江戸時代の絵図や文書には本調査地点の位置に池は見えないが、絵図と現代の地図を比較すると、庫裡の裏(北東)に存在したと考えられる。

 当該遺構からは総点数6,289点、総重量575,506.6gが検出された。ブロック別に見ると、Fブロック上層から検出された遺物が最も多く、60号遺構全体の1/4を占める。

 各材質別では、点数比は陶磁器類が7割を有し、そのうち磁器・陶器で6割に達する。陶磁器類の推定個体数は磁器737(+蓋57)、陶器288(+蓋68)、b器31(+蓋8)、土器108(+蓋8)、合計1,164(+蓋134)個体が認められる。遺存状態は高く、日常的に使われる器が主体である。19世紀中葉の製品が多いが、1850〜70年代頃に量的なまとまりが見られる。バリエーションは豊かで器種は50種におよぶ。

・「納豆 四ツ谷 天龍寺」と墨書された曲物蓋

 天龍寺の納豆は、幕府関係者や檀家に対する歳暮や年始の進物として用いられていたようである。天龍寺文書に「五寸之納豆」、「六寸くり足ニて納豆壱曲」)とみえ、これらは容器の寸法を示したものと考える。今回、出土した曲物の蓋は径13.8cm(約4寸)を計る。贈答用のものが何らかの理由で使用されず、廃棄されたものと考えられる。

・池の変遷過程

Ta期:東側中央はロームを不整楕円状に掘り残し、中島を築く。池底は部分的に深く掘り下げられ、また、Bブロック(74・80号遺構)とE・Fブロック間(73号遺構)の計3ヵ所で、湧水施設と推定される浅い土坑を掘削している。岸には、丸太による乱杭護岸がなされ、また、C・E・Fを除く、各ブロックごとを仕切る杭列などが築かれる。護岸は部分的に二重もしくは三重に配置されたようである。

Tb期: 規模はTa期と変わらない。底面直上に粘質土層が堆積したあとに、中島と北岸を結ぶ土橋が構築される。73号遺構に池の堆積土が埋まり、E・Fブロック間の杭列が設置される。 Fブロック中央には部材、その上には樹皮が多く載った状態で検出され、また、土橋北西脇(Eブロック北東)では緡銭を含む370枚もの銭貨が80cmほどの範囲で集中して検出した。古寛永、文久永寶も含まれるが、主体は新寛永(350枚)である。一部、差銭が含まれていることから、捧賽銭ではないであろう。ただの廃棄とも考えられない。銭の直上には近代の土層が堆積していたことから、池の廃絶(埋め戻し)に伴う儀礼=撒銭と推定される。

 A〜CブロックおよびD〜Fブロック下層からは、近代の遺物が含まれず、近世の遺物が少ないながらも含まれることから近代に入る前に廃絶したと考えられる。

U期: A〜Cブロックが埋められ、中島は地続きとなる。主にFブロック上層に多くの遺物が含まれ、町屋関係の陶磁器類や木製品などが出土している。Fブロック上層から採取された珪藻化石の分析結果によれば、当時は「ジメジメとした陸域を伴う湿地環境」と推定されているため、この頃には池の体をなしていないと考えられる。

 池の廃絶時期については、1850年代に製作が開始される瀬戸・美濃系端反形の小碗や小皿が入ることや、土橋北西隅から検出された「銭貨集中部」に含まれる文久永寶の初鋳年が文久3年(1863)であることから、少なくとも1850年代から1860年代と考えられる。しかし、明治時代になって輸入されるブタの骨が出土することから、池の廃絶は明治時代初頭の1870年代から1880年代に相当しよう。本調査地点を含む天龍寺境内の一部が民有地化される頃まで、Fブロックを中心とした池中央部が開口していたと考えられる。

2.第1・2面

 明治時代になると本地点を含む天龍寺の寺領の一部が新政府に収公され、また、檀家である士族が一部離散し、天龍寺の経済的危機が続いたようである。『高松家文書』の「明治初年内藤新宿内屋敷割絵図」では分割は窺えないので、明治5年(1872)の地租改正令前後から徐々に寺領が手放されていったと考えられる。

 遺構は、長屋状の建物(礎石)およびこれに伴う木樋・竹樋、柱穴列、芥溜、煉瓦組遺構、洋樽を側板に転用した井戸など41基の遺構を検出している。遺構の主軸方位は調査区東の南北道路の主軸とほぼ一致する。遺物は総点数6,961点を数え、総重量125,272kgを量る。

・石鹸工場に関わる遺構

 長屋およびこれに伴う遺構を検出したが、これとは別に長屋には不釣合いな堅固な造りの煉瓦組遺構(78号遺構)を検出した。南北1.5m以上、東西2.8mの掘り方内に平面凸状の煉瓦組の構造物を配する遺構を検出した。主体部は南北1.17m、東西0.8m、南際は1.95mを測る。煉瓦(すべて手抜き成形)は密に配され、目地には砂と漆喰を混ぜたものを使用していた。内部は南北0.7m、東西0.5mを測り、煉瓦1段分が低くなっていた。覆土には炭化材や焼土が含まれ、内部の煉瓦表面は黒く変色していたことから燃焼施設と考えられる。南側は窄まり開口していることから、この部分が焚口であろう。なお、覆土には遺物は含まれておらず、廃棄年代は不明である。

 78号遺構が如何なる用途に使われたのかが問題となる。これを解決する記述が、『新宿裏町三代記』(青蛙房、1982年)や『花王石鹸五十年史』(花王石鹸株式会社、1940年)にある。これらの書籍によれば、本調査地点である旧内藤新宿町4番地に、明治20年代に棟割長屋を改造した石鹸工場(長瀬商店新宿第2工場、「株式会社花王」の前身。)が存在したことがわかり、『社史』には次の記述がある。

 「釜は四尺に四尺五寸位(約135cm)なもので、その横手に、もう一つ小さいのがあった(後略)」

 『化学工業全書』(丸善書店、1896年)には「石鹸ノ煮釜ハ直径四尺二寸(約126cm)、二シテ(中略)、竈は煉化石ニテ築キ、焚口ト灰口ハ、地下二尺(約60cm)許掘下ケタル所二設ク(後略)」という記述がある。

 以上の記述を考慮すると、鹸化用の竃は煉瓦造で、地下を60pほど掘り下げた構造物であったことがわかる。また、釜の最大径(口径)が130cm前後であったことから、竃の平面規模はこれ以上であること、焚口、灰口にあたる下部構造が、上部構造に比べ規模が小さいことが図に見えるとおりである。ただ、竃自体の寸法が記載されていないため、不明な点が多い。

 廃絶時期を示す遺物の出土はないものの、明治時代前半の所産と考えられる手抜き成形の煉瓦からこれを推定できる。もし、78号遺構使用の煉瓦が、石鹸の製造時期とほぼ同時期の所産であるならば、長瀬商店新宿第2工場の操業期間(明治24年(1891)〜明治29年(1896)年)と一致し、鹸化の時に用いられた竈の下部構造に該当する可能性が高いといえよう。そして、南北に伸びる木樋や竹樋は長屋を想定させ、棟割長屋の工場であったことと合致する。


◇昨年、11月20日(木)に江戸東京博物館学習室にて行われた、江戸遺跡研究会第93回例会は、小俣悟氏より、以下の内容が報告されました。

「入谷土器」について−東京都台東区入谷遺跡出土資料の検討−

小俣 悟(台東区教育委員会)

はじめに

 台東区内の焼き物生産としては隅田川沿岸に近世以来著名な「今戸焼」が知られ、土製品・瓦や玩具類等が生産されている。そのほかに江戸時代の「切繪図」には川沿いに「瓦町」などの地名が散見されるが、隅田川沿岸では「江戸在地系土器」を生産していたと推定される諸窯が広がっていた(関口1990他)。浅草寺遺跡出土の中世瓦も在地産とも想定されることから、古代以前の土器作りはともかく、近在ではかなり早くから窯業が行われていることが予想される。また「高原焼」にかかわると思われる「高原屋敷」も見られる。

 更に文献などでは「入谷乾山」あるいは「入谷土器」等「入谷」での焼き物生産が想定されるが、共に実体は不明であった(註1)。近年の調査(台東区入谷遺跡)により「入谷土器」生産関係と推測される遺物群が出土した。今回は資料の紹介と共に「入谷土器」、更には「入谷乾山」をいささか検討したい。

(1)入谷遺跡

 入谷遺跡は台東区下谷二丁目に所在する。武蔵野台地東方の東京低地西縁に立地し、微高地から低湿地にかかる地点である。これまでに2回の発掘調査(第1次調査下谷2−2地点、第2次調査下谷2−1地点)が実施され、近世寺院跡・町屋跡関連の良好な資料を調査している(台東区教育委員会文化事業体育課 2002)。

 歴史的背景として所在地は旧入谷町であり、近世以前には「金杉」と呼ばれる地であった。江戸時代には豊島郡坂本村あるいは御府内坂本町であり、また入谷とも称されれていた。「坂本」は当地が東叡山寛永寺の東に位置し、比叡山東方の大津坂本に擬したようである。当地では江戸時代から植木栽培ー特に朝顔が盛んである(註2)。

 2000年に下谷2−1地点の調査が実施されている。確認面は1〜3の3面あり、3面が18世紀後半以前、2面が幕末までであり、土坑・溝・井戸・竹樋・貯水施設が検出され、特に竹樋は3系統検出されている。遺物では多量の江戸在地系土器(無釉及び施釉)、陶磁器(京焼き系も)や木製品が出土しており、木製品には呪符と思われる「思う事叶う福助」と墨書された板状製品が見られ、土蔵などの「鍵」の柄と推測される。生産関連遺物は主に13号遺構から出土している。

 13号遺構は調査地南側に位置し、2面において検出された。長軸×短軸×深さは〔1.78〕×〔1.38〕×〔0.43〕(m)、多量の無釉土製品及び若干の施釉土器等の江戸在地系土器更に少量の陶磁器が出土しており、推定遺構廃棄時期は18世紀第4四半期〜19世紀第1四半期頃である。江戸在地系土器(無釉)の一部には、二次焼成を受けたものがみられる。無釉土製品としては皿(大・小)、脚付き灯明具、秉燭、カンテラ、行平鍋、土瓶、植木鉢、陽刻蓋、鉢、蓋付き小型鉢、棒状製品、板状製品であり、行平鍋には内面に6角枠「楽」銘が陰刻されている。また被熱したものもみられ、二次焼成を受けた皿は非常に固く締まり、胎土は赤紫色を呈し、器形は平坦に変形している。秉燭には顕著に欠損し、煤の付着したものも見られる。

 無釉土製品は本来施釉されてしかるべき器種、器形があり、未完成の製品が廃棄されたものとも思われる。更に棒状・板状土製品は窯道具の「ツク」「タナイタ」(註3)とも思われ、蓋付き小型鉢は「爪ドチ」に類似し、二次焼成を受けた皿、欠損している秉燭も「トチン」代わりの転用品とも思われる。

 よってこれらの無釉土製品は土器生産に関連した遺物群と推測される。その他三角錐状の用途不明土製品が少量みられ、一面に刻印を有するものと無印のものがある。今のところ窯道具を含めて類例を知見しないがあるいはこれも窯道具とも思われ、あえて用途を推測すれば窯詰めあるいは焼成期間等の目安かもしれない。

(2)「入谷土器」関係の史料

 わずかながら文献から入谷地域において土器生産が行われていたことが確認できる。

  1. 『新篇武蔵風土記稿』豊島郡坂本村の項に産物として「入谷土器」、また住民に日光御門主関係の土器職人や土器商人?の名も見える蘆田1963)。
  2. 『東京府志料』「下谷坂本町四丁目」の項に「今戸焼瓦器」、「坂本村」の項(総記)に「農隙ニ土器ヲ製ス」[物産]に「土焼手遊物、灯明土器、土焼牽牛花鉢」とみえる(東京都1961)。

(3)「入谷土器」関係の刻印

 遺跡調査の出土遺物に入谷地域名の施釉土製品が管見では若干ながら見られる。

  1. 「坂本楽喜」入谷遺跡下谷2−2地点50号遺構行平鍋
  2. 「坂四楽喜」台東区豊住町遺跡(下谷一丁目)試掘1トレンチ1号(行平鍋)把手
  3. 「入谷楽金」東京芸術大学奏楽堂地点TGS94−SK314行平鍋(東京芸術大学発掘調査団 1997)
  4. 「坂四楽喜」東京大学法学部4号館・文学部3号館建設地遺跡文学部遺構外(行平鍋)把手(小俣 1990)

その他に「楽」銘の製品としては入谷遺跡下谷2−1地点13号遺構行平鍋(2種)、台東1−34地点出土小型鉢などがある。

(4)土器の特徴

  1. 胎土は色調が桃褐色、褐色粒子等やや含み、やや砂質?、緻密。焼成堅緻。透明釉施釉。
    文様は体部条線文。
  2. 胎土は色調が黄褐色、褐色粒子等やや含み、やや砂質?、緻密。焼成堅緻。黒色釉施釉。
    また胎土分析として「入谷土器」及び銘文を有する「今戸製品」について元素分析を実施した (註4)
    1. 入谷遺跡下谷2−1地点「坂本楽喜」銘行平鍋
    2. 入谷遺跡下谷2−1地点「楽」銘行平鍋他入谷
    3. 入谷遺跡下谷2−2地点「弁司」施釉人形
    4. 浅草寺遺跡影向地点「源次郎」赤彩皿?
    5. 浅草1−41地点瓦質焜炉「浅草/今戸町/(山)キ近江屋」

 分析結果としては各資料共に類似しているが、「今戸」の2点は砂粒の粒径が細かいようである。また基本的には縄文土器とは相違するようであり、胎土の精製等の違いかあるいは産出地の相違か。

(5)「入谷乾山」との関係について

 出土資料の刻印等からあえて推測すれば「入谷土器」は楽焼系とも思える。『東京府志料』「下谷坂本町四丁目」の項に「今戸焼瓦器」とみられることから、「今戸焼」との関系が意識されるが、関連する系統としては「入谷乾山」も考慮されよう。

 「入谷乾山」とは、京焼きの陶工である尾形乾山が、寛永寺座主である日光御門主の関係から1730ー43年頃江戸に下向し、入谷に居住し生産を行っていた焼き物である。乾山自身はその後佐野栃木県)に移住し焼き物を製作しているが、江戸では「乾山焼」が継承され明治に及んでいる。ちなみに2代、3代も入谷に関係しているようであり、18世紀半ば以降入谷において乾山焼きが継承されている可能性がある。

 「乾山焼」とは高火度焼成あるいは低火度焼成され、器種としては角皿・折り縁鉢などが特徴的である。乾山自身は楽焼き系は作らないが、京焼2代目猪八等は楽焼きを取り入れている。下谷2−1出土の軟質陶器(施釉土器)には「乾山焼」をモデルにしたとも想像されるものもみられる。たとえば色絵鮑型土器は「色絵松桜図鮑皿」などである。この色絵鮑型土器などの施釉土器が「入谷土器」の範疇であるかは確定できないが、「入谷乾山」は低火度焼成が主体で土器皿等も製作しているようであり、土器生産との関わりも推測される。

おわりに

 今回の発表は資料紹介を中心にしたものであり、内容的にはあまりまとまりのないものとなっているが、「入谷土器」の実体については今後の課題としたい。

【註】

【引用及び主要な参考文献】

(付記)

 多忙などから本報告が江戸遺跡研究会例会での発表からかなり時間が経過してしまい申し訳ない。発表時とあまり変わらない内容にとどまるのは不本意ではあるが、発表後にいただいたウイルソン氏を始め諸氏からの有益なご教示もふまえた上で、今後入谷地域の調査を重ねながら改めて検討していきたい。また遅ればせながら「入谷遺跡下谷2−1地点」他の報告書を準備中である。ご教示をいただいた諸氏を始め江戸遺跡研究会の関係者、及び発表の手助けをしてくれた入谷遺跡下谷2−1地点の崎野氏他の台東区文化財調査会調査員の諸君には、記して感謝したい。


江戸遺跡研究会編『墓と埋葬と江戸時代』刊行のお知らせ

江戸時代、人びとはどのように葬られたのか。土葬と火葬の持つ意味、 納棺時に横たわるか蹲るかの違い、地域社会の特質と変容を伝える墓 標、副葬品の数々など、庶民から大名まで多様な墓の発掘から解き明 かす。さらに三途の川の渡し賃「六道銭」や、遺体の頭に鍋をかぶせ た「鍋被り葬」にも触れ、江戸の墓をさまざまな角度から考察する。 江戸遺跡研究会第9回大会『江戸の墓と葬制』の記録である。

主な内容
はしがき寺島孝一
近世墓研究の課題と展望−基調報告−古泉 弘
東叡山寛永寺護国院墓地跡の調査と成果惟村忠志
発掘事例にみる多摩丘陵周辺の近世墓制長佐古真也
山梨県北部における江戸時代墓地について森原明廣
経ケ峰伊達家三代墓所の調査小井川和夫
出土六道銭からみた近世・堺の墓地と火葬場嶋谷和彦
近世の鍋被り人骨について桜井準也
都市下層民衆の墓制をめぐって西木浩一
江戸時代人の身長と棺の大きさ平本嘉助
江戸の墓の埋葬施設と副葬品谷川章雄
あとがき古泉 弘

第96回特別例会のご案内


【編集後記】第96号をお届けします。次回は、恒例の特別例会を開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしています。
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