鶴

2004 年3月3日発行

江戸遺跡研究会 会報 No.94

第17回大会「続遺跡からみた江戸のゴミ」を終えて

寺島孝一 当会世話人代表

 当研究会で、昨年と今年の二度にわたって「江戸のゴミ」をテーマに大会を開催した。

 昨年の第16回大会では「基本的に遺跡や遺構、文献などの分析から得られる『廃棄遺構』に関する特徴的な事例報告を集め…多種多様な遺構の実態についての知見を共有」(小川基調報告)することを目的とした。

 本年の大会の基調報告で小川は、前回(第16回)の大会の最大の成果を「江戸時代にゴミや廃棄に関する研究には論ずべき問題、解明すべき課題がきわめて多く残されており、われわれは漸くその緒についたということを確認しえた」と総括した。

 これをふまえて今回は「前回より巨視的な観点から遺跡における廃棄を見る」として「遺跡全体や特定の業種、生業といった観点からの検討、さらに「『ゴミはなぜ捨てられたのか』という『廃棄する人間の意識』も主要なテーマの一つ」としてとりあげるとした。そして、大会にむけて、前回と同様にワーキング・グループを立ち上げ、毎月のように勉強会を開いて、今大会にいたったわけである。

 大会では、「基調報告」をふくめ8本の発表と、2本の紙上発表が行われ、「生業の遺構・遺物への反映のしかた」、「大規模災害後の復旧事業にともなう廃棄物の移動・処理」、「日常のゴミの堆積過程の様相」、「ゴミの量の時代的変遷」、「ものを捨てるという行為に内在する価値観や意識の問題」、「転用や再利用、再資源化の問題」などが、具体的な例をもとに報告された。

 それぞれの発表は、一年にわたる勉強会での論議をもとに行われたもので、きわめて示唆に富んだものであったといえよう。

 ただ「『遺構に伴う』とか『遺構で共伴する』などという表現一つをとってみても、『廃棄』のあり方という視点から見るとき、如何に曖昧なものかに気づかされる」(小川基調報告)と述べているように、これらの報告を有機的に組み立てて、「江戸のゴミあるいは廃棄」を論じることのむずかしさを、特に全体討論の場で強く感じたことであった。

 江戸という多くの人口を抱えた都市で、ゴミがどのように発生し、どのように処理されたのか? 昨年の岩淵さんの報告もふまえたうえで、私たちはどのような切り口でゴミあるいは廃棄の問題を考えてゆかねばならないのか?

 この2回の大会で、いささかでもその考える糸口を示唆できていたらさいわいである。

参加記
第17回大会参加記−ゴミから江戸が見えたのか?−

小沢詠美子(神戸大学)

 筆者は門外漢のため、本来大会参加記などを書かせていただく立場にないのだが、特に興味のあった報告についてのみ、あくまでも文献史学を専攻する者として、ワガママな希望も含めて若干の感想を述べさせていただくこととする。なお、筆者の無知・誤解からくる不適切な記述も多々あると思われるが、はじめにお詫びを申し上げる次第である。

 さて、昨年に引き続き、本年のテーマは「ゴミ」であった。今回、最も楽しみにしていた報告は、毎田佳奈子氏「巣鴨の植木屋」である。「遺構・遺物から見た植木屋らしさ」というサブタイトルに惹かれたのである。まず興味を持ったのは、「日本郵船地区と駐在所地区との比較では、同じ植木屋の敷地内においても生業の場とそうでない場があり、その違いが遺物の組成からも捉えられる」というくだりである。

 問題は、植木屋の「生業」である。植木屋は植木の栽培・販売および庭園の造成のほか、「植木茶屋」と呼ばれるような、蕎麦屋や汁粉屋、料亭などを同じ敷地内で営んでいた場合も多い。こうした店舗付近を発掘すれば、当然園芸用具ではなく日常雑貨の類が出土するはずであるが、店舗営業も植木屋の大事な「生業」の一部である。また、浅草花屋敷の園主三代目森田六三郎などは、借地経営を行っていた形跡もあり(拙稿、2003)、植木屋の生業はさまざまである。そこで、遺構・遺物から植木屋の定義はできないものであろうか。平野恵は文献調査の結果から、植木屋を「近郊農村型」と「都市型」に分類し、かつ「植木屋」と「花屋」の違いを指摘している(平野、2003)。こうした定義が遺構・遺物からも実証できれば、生業のあり方も含め、より具体的に江戸の植木屋の存在形態が明らかとなるであろう。今後の調査・研究に期待したい。

 次に、堀内秀樹氏「廃棄する意識」。18世紀後半以降ゴミの量が増え、19世紀前半には完形徳利の廃棄が増える、との指摘はたいへん興味深く感じた。18世紀後半、すなわち宝暦・天明期は、江戸時代の転換期として位置づけられている。とりわけ江戸では宝暦・天明文化が展開し、執着を嫌い金離れのよさを美学とする「江戸ッ子」が誕生する。一方、幕府による経済政策も、年貢依存型から商業重視型へと大転換が見られた時期である。そして19世紀前半の文化・文政期において、江戸はインフレによる好景気に沸き、現代人に負けず劣らず、流行に敏感でブランド志向の強い江戸で暮らす人々の消費意欲をかき立てた。こうした社会状況が、発掘調査から裏付けられた意義は大きい。

 そして最も注目すべきは、やはり貧乏徳利の存在であろう。つまり、廃棄されることを前提として作られた商品が、江戸で大量に流通していたということである。おそらく、他の地域ではこうした商品の大量流通は見られないであろう。ここに、江戸の特殊性がよく示されている。

 最後に、西山博章氏「宇和島藩伊達家屋敷跡遺跡における廃棄遺構の様相」。当遺跡から大量に検出された廃棄物の中に、木材が含まれていなかったという指摘があったが、玉川上水の修復工事の際も、古物払い下げを行っている事例もあるので(拙稿、1997)、そうした可能性も考えられよう。これは、今後文献調査によって明らかにできるのではないかと思われる。改めて、発掘調査における文献調査の重要性を感じた。また、報告にあった「地下室からの出土遺物は(中略)、その多くがもともと地下室に収められていたものであると思われる」という部分が気になり、その後報告書を見せていただいたが、どうやらすべてゴミとして廃棄されたもののようであった。

 ところで、いつも近世考古学の報告を聞く度に違和感を覚えるのが、「ちかむろ」という用語である。筆者は江戸時代の史料をかなり見てきたつもりであるが、地下室を指し示す際「穴蔵」「穴蔵むろ」、明治になってからは「地中室」という用語を見たことはあっても、「ちかむろ」という用語にはお目にかかったことがない。「ちかむろ」は現代用語でもなく、史料用語でもなく、明らかに考古学用語であるにもかかわらず、その響きがあたかも史料用語のように聞こえてしまうため、知識の乏しい人は、確実に誤解するであろう。“文書屋”のただのワガママとは思いつつ、再考をお願いできれば幸いである。

 以上、個人的な興味に基づき、雑感を述べさせていただいた。筆者が今回の大会に期待していたのは、ゴミから江戸が見えるか、ということであったが、残念ながら浅学の身にはあまりよく見えなかったというのが、正直な印象である。これらの遺跡は、大坂でもなく、京都でもなく、江戸の遺跡なのである。報告の際、もう少し江戸の歴史的・社会的背景を踏まえ、総城下町江戸の特殊性を意識してお話しいただければ、より一層その遺跡の性格が明確になったのではないかと思われる。今後の江戸遺跡研究の発展に期待したい。

 最後に、このような勉強の場を与えて下さった報告者の皆さま、およびスタッフの皆さまに、心より御礼を申し上げる次第である。

【参考文献】

参加記
江戸遺跡研究会第17回大会「続遺跡からみた江戸のゴミ」参加記

川西直樹(台東区文化財調査会)

 江戸遺跡研究会の大会が2年続けて、「ゴミ」というテーマは、前回の小川望氏の基調報告をあらためて読み返してみれば、到底1年では議論し尽くせない内容であり、今大会でも様々な問題が議題に上がった。その参加記を記すにあたって、不勉強な身ではあるが、江戸遺跡調査に携わる者として参加して自分が思ったこと、感じたことを記してみたい。

 生業・商いが廃棄行為にどのように反映されているのかを遺物の器種組成の分析から明らかにした手法は、水本和美氏の発表や、新宿区坂町遺跡の大ゴミ穴で分析(小川祐司・阿部常樹氏)されているように、一つの土坑に異なる出自を持つ遺物が存在する事を改めて認識させられたものであった。また、両氏の発表は植木屋、茶屋という文献史料などの裏付けから得られた結果のモデル化であり、今後、文献などの情報が無い遺跡(例えば町屋の遺跡では、表店の商人、裏店の様々な職種の住人の生活が反映されていることが推測される)でも、ゴミから得られた情報によって特定の業種、生業に結びつけるための手がかりになるであろう。

 貝類遺体を統計学的に分析する事で、遺構覆土の特徴や堆積過程を復元した阿部常樹氏は、昨年の石神裕之氏が行った人工遺物の統計学的分析と同様に、統計学的手法、方法論の有効性を提示するものであった。堆積過程を復元する際、「もとある遺構を破壊して新たな遺構が構築され、その覆土が構成された時、開口時間が長く感じられたり、2回に渡って廃棄されたように感じられる」という内野正氏の発言や「日常廃棄の上に非日常的なイベントが廃棄されると、下の日常的廃棄が見逃される」という小川望氏の発言のように、主観的な分析方法により廃棄要因の解釈に違いが生じる可能性がある。これらを避ける一例として、層位ごとの遺物を詳細に取り上げ、統計学的な手法を用いることにより、動物遺体・人工遺物などを総体的・客観的に分析する方法を述べている。また、本発表が自然遺物を対象にしたものであったことにも注目したい。本来、日常的な廃棄の中には現在生ゴミと言われる有機物(食物残滓)が多く含まれていた可能性があるが、考古学ではそれらの多くは遺らないモノが多い。しかし、条件が良い遺跡、特に低地遺跡では遺存している場合もあり、筆者も低地遺跡を幾つか発掘する機会を得たが、その際、常に感じることは、遺構覆土に多量の食物残滓・木製品・木屑等の微細な遺物が多く含まれることである。本発表からは遺りやすい人工遺物のみだけでなく、これらの微細な遺物を含めた詳細な分析の必要性をあらためて感じた。

 「廃棄する意識」は、関心を集めた発表で、討論会において活発な議論がなされたことも、これを良く示している。堀内秀樹氏は「社会的な意識が出土資料に与えている影響が大きい」として、廃棄者のモノに対する評価・価値といった意識の変化を徳利の完形率からアプローチしている。さらに通い徳利のシステムの崩壊を推測している。この点については、異議が出されており、今後検討が必要であろう。当時の人々に内在する意識を読み解くという事は重要であり、使用者の目的意識が反映されているという本大会紙上発表で中野高久氏も指摘しているが、個々の遺物には廃棄する意識だけではなく、「考古記録は人間の各種の行動と思考の化石遺存体であるから、考古資料から行動様式を復元し、社会を再現することが考古学者の仕事である」とゴードン・チャイルドが言うように、遺物には記録された様々な情報が遺されていることを再認識させられた。討論会では、火災においてリセットされるという指摘、特に大名屋敷では焼け残った陶磁器や、完形の鍋島焼が捨てられるケースが指摘された。このほか廃業や死去など、廃棄の意識の多様性が議論されたが、寺島孝一氏の「全ての遺物に捨てた人の意識は遺っているのか」という指摘も見逃してはならない。廃棄する意識がモノへどのように反映されているのか、今後、詳細な資料の分析・検討を行い、堀内氏が言うように如何に考古学的議論へ昇華させていくかが課題であろう。

 大名屋敷内の廃棄行為のあり方の発表では、1年あたりの廃棄量から、ゴミ処理の問題が顕在化した事を考古学的に検証している。また、廃棄場所の推移から、広大な空閑地がゴミの問題を解決できたという指摘は、前大会の東京大学本郷構内遺跡の大名屋敷のゴミ処理が敷地内で完結していたという事例と共通性があり興味深い。しかし、火災の廃棄物の中に炭化材が無いことから屋敷内で全て処理されていたかは疑問が残るという指摘は、前大会で成瀬晃司氏が報告した東京大学本郷構内遺跡周辺の土の移動の指摘と合わせ、今後、検討していく必要があろう。なお、日本橋の町屋においては日常的廃棄は外に持ち出され、非日常的な廃棄は敷地内で行われていたという。この点と比較すれば、ゴミ処理システムは敷地内の空間に影響されるものであろう。筆者が担当した台東区の拝領町屋の例では、空閑地が多い為か、日常的な廃棄遺構が多く認められ、同じ町屋でも江戸の中心地から離れ、敷地に余裕がある場所では異なるゴミ処理がなされ、地域・階層などにより廃棄の多様性が窺われる。

 最後に寺島孝一氏のゴミに関する町触れや川柳などの膨大な資料の提示は氏が「当時の文献史料を通して感じ取って欲しい」と言うように、現代人である我々の感覚とは違ったゴミの感覚が江戸時代人にもあったことが窺われる。このような文献史料から得られる情報は、考古資料からゴミを解釈するにおいて常に認識しておく必要があるであろうし、またこれとは逆に、文献史料で見えてこない事象を考古学的手法で明らかにしていかなくてはならないであろう。

 「江戸のゴミ」を見たとき、詳細な分析を元に、遺物の組成、数量をどのように解釈するかという方法論、遺物から得られる情報から人間の各種の行動と思考を読みとること、廃棄主体者の生業・商い・身分、地域・環境といった空間的把握など、様々な問題があり、今後その中からさらに多くの問題が生まれていくであろう。それだけゴミという問題の難しさがあるが、それらは単独で独り歩きすることなく、総体的に議論を重ねていく必要がある。また、「ごみ」「採土坑」、横田龍一氏が行った論考の「リサイクル」といった概念・用語なども十分に理解し、共通認識にしていく必要があると思われる。

 以上、筆者の勉強不足で雑文となってしまった事をここにお詫び申し上げたい。また、参加記を書く機会を下さった小川望氏、中野高久氏、ご助力を頂いた小川祐司氏に末筆ながら記して感謝いたします。

参加記
第17回大会「続遺跡からみた江戸のゴミ」に参加して

渡辺晴香 (大阪府教育委員会)

 私は前回大会を所用があって参加することができず、「今回はいつもよりさらに面白かったよ。」と何人の人にも言われ、とても残念な思いをした。そうしたところへ、続けてさらに掘り下げた大会を開催するということを聞き、今度は絶対参加するぞ!と一年間楽しみに待っていた。

 まず参加するにあたって考えていたのは「ゴミって?」ということだった。恐らく前回大会のときから議論されて、皆さんの中には「ゴミ」が位置付けられていたんだと思う。しかし、前回出席できなかった私はしばらく一人頭の中で自分の1日の行動を思い浮かべては、私の「ゴミ」と「ゴミ」の世界がぐるぐる回っていたのである。何がどういう形になれば「ゴミ」で、「ゴミ」ではないのか。この大会の「ゴミ」はどこへ連れて行ってくれるのか。

 今大会のテーマを小川望氏の基調報告のなかにみると、遺跡における廃棄を特定の業種や生業という観点から検討すること。そして、廃棄する人間の意識も重要なテーマとしてあげられている。事例報告では、同じ調査地の中でも遺構とそこから出土する遺物を一つ一つ丹念に見ていくことによって、それぞれの性格の違いを把握し、「ゴミ」についてだけではなく空間を復元することが試みられている。遺構・遺物を扱う方向性について再認識させていただいた。次に、発表についての感想を述べさせていただく。

 毎田佳奈子氏は植木屋、水本和美氏の発表は茶屋・宿屋という場での「ゴミ」について発表をされた。お二人の発表はどちらも生業に関する「ゴミ」であるが、切り口がまったく違い、興味深い発表であった。近世の調査では調査前に文書資料などで調査地点についてある程度の推測がつく場合が多い。それを裏付けるだけの資料が出たことに満足せず、良好な資料が見つかった場合は、両氏の研究のようにしっかりと資料を捉えていただいておくと後の検討材料として活用の幅が広がるだろう。

 西山博章氏の発表は普通の遺跡ではなかなか当たらないような規模の大きな遺構を中心とした事例であった。しかし、遺構の大小はあれど、災害などによる廃棄遺構の問題はどこでも見られるもので、武家地以外の災害復興との比較検討も面白いと思った。

 阿部常樹氏の自然遺物・食物残滓についての発表は少々耳が痛かった。同じ遺物を取り上げるにも、調査精度を上げるとここまで分かるものなのだと。本当に「ゴミは語る」と感じてしまった。

 内野正氏は、尾張藩上屋敷をほぼ全域にわたって調査された事例を発表されている。一つの屋敷の中での「ゴミ」の推移がわかる好資料で、壁土採取土坑のはなしも興味深かった。

 堀内秀樹氏の「廃棄する意識」は、考古学で証明することが困難なものであるが、私たちが自分たちに置き換えて考えられることでもある。これを考えておかないと遺物論や、遺構論だけで話が終わってしまうわけで、本来の性質が見えてこない。江戸時代人の意識と自分たちの意識をリンクさせることは、遺物・遺構を評価する上でとても重要なことだとだろう。

 寺島孝一氏の特論は、楽しく聞かせていただいた。発表資料には後ろに大変な量の文献資料が付いている。このような文字資料を使用できれば、一般の方に説明する時にもさらに生の江戸時代を感じていただけるんだろう。

 また、中野高久氏と横田龍介氏が紙上発表された転用や再利用の話は、今大会すべてに掛かってくる問題である。ワーキンググループの方々の間では議論が随分されたようだが、これから調査・整理を行っていく上で、自分の中でもきちんと整理しておこうとかんじた。

 最後になるが、今回大会テーマとは別に考えさせられてしまったのは、日々みつかる遺構・遺物に対しての取り扱いについてである。慣れてしまった作業の中で流れ作業的に資料を処理してしまっていないか。一つ一つの遺物・遺構に対して評価する様々な視点をもって当たらない限り、一部の遺構・遺物はお蔵入りしてしまい、やがては恐ろしいことに「ゴミ」に近づいてしまわないだろうか。考えてから少し怖くなったが、日々がんばるしかない!今回大会に出席させていただいたお陰で、色々と意識しつつ考えることができた。ありがとうございました。

 最後の最後に、江戸遺跡研究会の皆様、とくにワーキンググループの皆様、2年にわたってご苦労様でした。来年の大会も期待しております。

通信費未納の方へ

 江戸遺跡研究会では、会報送付の通信費として1年に¥1,000の御負担をお願いしております。会員の方には次号で通信費のお願いをする予定でいますが、3カ年以上通信費を未納の方につきましては、今回振り込み書を同封させて頂きました。至急納金をお願いいたします。

第94回例会のご案内

◇お詫び◇

2003年11月20日(木)に行われました第93回例会の小俣悟氏「入谷土器」について」の報告は都合により次回会報で掲載いたします。ご容赦ください。


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