鶴
図版の入った完全版はPDF版(1.59MB)をご覧下さい。

江戸遺跡研究会会報 No.89

江戸遺跡研究会 2003年3月6日発行

第16回大会「遺跡からみた江戸のゴミ」を終えて

小川望 本会世話人

 第16回江戸遺跡研究会大会は、2年ぶりに江戸東京博物館会議室を会場に開催された。今回も 「何かコトが起こる」というジンクスどおり、2月1日・2日の会期中にはスペースシャトル・コロン ビア号の最期という痛ましい事故が発生したものの、大会には何等影響なく予定通りプログラムを 消化することができた。

 今大会のテーマは「遺跡からみた江戸のゴミ」であった。発表要旨の基調報告でも述べたとおり、 これまでこうしたテーマが大会はもちろん例会でも取り扱われることは稀であった。しかしわれわ れが出土資料として手にしている江戸時代の遺物のほとんどは、当時のひとびとが「捨てた」「ゴ ミ」であり、この「ゴミ」がどのような過程を経て、最終的にそこに存在することになったのかを問 うことなしには、遺物の生産・流通・消費、遺構の構築・使用・埋没という各プロセスを復元して 人類の過去を叙述するというわれわれの考古学的研究は完結し得ないであろう。

 翻って現代のわれわれの周囲を見渡してみると、「ゴミ問題」は生活レベルをはるかに越えた、経 済的、社会的な重要課題であり、ゴミ減量とともにそのリサイクル、リユースといった再資源化に 向けた施策が進められてきている。このことは金属製品や石油化学製品に付けられた分別用のマー ク、印刷物に刷り込まれた古紙使用率を示すマークなどの急速な浸透にも見て取ることができよう。 その一方で最近では、古紙の高騰を背景に集積場の古紙を不法に持ち去るいわば「ゴミ泥棒」も横行 していると聞く。ゴミ不要なもの、価値のないものという“常識”を覆すようなできごとではあ= る。ある意味でゴミは人間の営みを映す鏡のごときものということができようか。

 基調報告をはじめとする重責を負わされるとはつゆ思わず、筆者が今回のテーマを提案したのは、 『図説 江戸考古学事典』(江戸遺跡研究会(編)、2001、柏書房刊)でなぜか廃棄遺構の項を担当 する機会を与えられ、自らの非力故に塗炭の苦しみを味わう中で、このテーマに関しては余りにも 論ずべき問題が多いと感じたことがきっかけであった。したがって当初は廃棄に関連する遺構のみ ならず、リサイクル、リユース、各種の遺物に関する議論も含めた盛りだくさんの内容とする予定 であった。

 このように大きく複雑なテーマに向けて発表内容や発表者を絞り込んでいく作業はとても一個人 の手に余ることは目に見えている。そこで第14回大会の顰に倣い、ワーキンググループを立ち上 げて関心をもつ研究者諸賢にさまざまな発表をお願いし、意見を徴し、討論を行うといった活動を 重ねていった。

 結果的に、今大会での発表は、ワーキンググループの場で発表していただいた内容に基づき、 廃棄にまつわる遺構を中心として構成されることとなった。紙上発表をお願いした方々にも、少な い時間ではあったが一言ずつコメントをいただく時間を設けることができ、議論に幅と奥行きを与 えていただいた。

 また参加者の全員が発表者に名を連ねることはなかったものの、ワーキンググループの場での 各人の積極的な参与によって深められた議論の蓄積は、大会の討論でも遺憾なくその成果を発揮し ていたように思う。

 さらに各発表の後の質疑や討論の場では、会場にお見えの方から多くのご意見をいただくことが でき、例年に増して活気溢れる大会となったことは、大会テーマの提案者としてはたいへん喜ばし いことであった。口頭及び紙上の発表者はじめ、会場にお見えの皆様方に厚く御礼申し上げる次第 である。

 討論の締め括りとして筆者が独善的に纏めさせていただいたように、今大会での発表や討論を通 じ、廃棄にまつわる遺構に関していくつかの論点が浮き彫りになってきた。当然のことながらそれ はわれわれの目指していた到達点ではなく、むしろ出発点に過ぎない。この結果に甘んずることな く、当初企図したような遺物からのアプローチを含めた更なる議論を行う機会と栄誉が、近い将来、 意欲と活力に満ちた別の提案者に与えられることを祈念して措筆したい。

△TOP of the page

江戸遺跡研究会第16回大会「遺跡からみた江戸のゴミ」参加記

淺野弘子 名古屋市博物館

 今年の大会テーマが「ゴミ」であるとうかがったのが昨年の4月頃,「とうとうきたか」と思わ れたのは私だけではなかったはずである。

 大会冒頭の小川氏の基調報告でもふれられたとおり,考古学の基礎をなす遺構論・遺物論を近世 遺跡から語るとき,人間の「廃棄」にかかわる行為についてさけては通れない。これらの遺物はな ぜここにあるのか。どのような過程を経て埋没するのか。どれくらいの時間を経てここに辿り着く のか。こういった問題意識は,特に都市遺跡の場合必然的に廃棄行為の解明につながっていくもの である。

 ただ「ゴミ」という言葉は,あまりにも現代的な意味付けに濃く彩られており,遺跡や遺物に対 して客観的であるべき私達自身の眼も,現代の「ゴミ」のイメージに染められているはずである。

 「ゴミ」を俎上にあげる際に伴う困難や課題は並大抵ではなく,私自身も企画展「名古屋城下の ゴミ”事情」の準備中にそれを痛感した。しかしだからこそ,会の盛況が示すように多くの関心を 集めたのではないだろうか。

 非力ゆえ大会の内容全てを述べることは叶わないが,筆者なりに大会報告と通じて感じた問題意 識を整理すると,まず第一に「廃棄」がどのように行なわれるのかという視点に立ったアプローチ があったと思われる。これは、何を「ゴミ(=廃棄)」とみなすのかという、「ゴミの定義」にも つながる問題であろう。従来「日常的廃棄」・「非日常的廃棄」という言葉で説明されてきたこと が多いが、何を「日常」ととらえるかという基本姿勢から再討論し、検証していくことが今更なが ら必要であると感じた。

 また、「ゴミ穴」「廃棄土坑」という言葉に引きずられがちであるが、地上施設である「ゴミ溜 め」の存在や屋敷地整地、長佐古氏の紙上発表にて述べられた水路・堀などへの投棄、埋め立て などに廃棄物が使用された可能性もある。名古屋城下では、武家屋敷拝領の際、地ならしで不要に なった土の譲渡が行われている例がある(註1) 。これらが単なる土なのか、どれくらいの割合で 廃棄物を含んでいるのかは不明だが、江戸での土壌の大規模な移動については、今回成瀬氏の報告 で具体例が示された。このような、広い意味での「廃棄」を含めてとらえていくことが、より実態 に即した様相を浮かびあがらせることにつながるのではないか。

 第二に、具体的に遺構・遺物から廃棄に関する情報を得るための「方法論」についての議論があ った。特に石神氏による遺物重量に基づいた計測方法は、興味深い試みであったが、数値を出すま でに課題として解決せねばならない事項が多く、今後より一層の検討が望まれる。従来からすでに 遺物の計測方法とその意味付けには、さまざまな試行錯誤がなされており、さらにこの報告を基礎 とした方法論の発展を行っていかねばならないだろう。

 最後に、文献資料から塵芥処理を検討した岩淵氏の報告では、具体的に江戸で行われていた処理 の諸相が明らかになった。これらは、当時の社会システムの中に組み込まれていた処理方法の一端 に過ぎないものである。しかし、氏の見解の核には「当時の塵芥処理に対する取り組み、社会のと らえ方がこれらの処理システムに表出するのであって、一概に『江戸は清潔か不潔か』を論じる手 段として当時の塵芥処理を検証しているわけではない」という見解があり、この点がまさに重要で あろう。そして、筆者のフィールドに引き付けて考えるなら、明文化された処理システムがおそら く存在しなかった、城下町名古屋を含めた全国の諸都市における塵芥処理の実態を考えていくうえ でも、念頭においていかねばならないと考えている。

 勿論、江戸は当時から傑出した巨大都市であり、そこで生じる都市問題がすべての都市に共通す るとは思えない。しかし当時の塵芥に対する考え方、処理に取り組む姿勢などは、それぞれの都市 の様相をふまえ、現代の「ゴミ」に対するイメージとの懸隔を常に意識しながら検討して行く姿勢 が必要なのだと痛感した。

 拙いメモをたよりにした参加記のため、報告者の意図にそぐわない解釈部分があるかもしれない。 すべて筆者に責があるもので、ご寛恕願いたい。

 (註1)新見吉治「士分の屋敷拝領・家作新築移転・屋敷内不用土の譲渡の手続『郷土文化』12-3 1957

△TOP of the page

参加記「遺跡からみた江戸のゴミ」に寄せて

中野高久 台東区文化財調査会

 第16回江戸遺跡研究会大会は2月1日、2日の両日、江戸東京博物館会議室で開会された。本大 会のテ−マは「遺跡からみた江戸のゴミ」で廃棄論を中心に取り上げたもので、特に遺跡や遺構、 文献などの分析から得られる廃棄行為の復元に主眼がおかれた。
 本稿では大会を通じて気になった事項について私見を述べさせて頂き、参加記に介したい。

1.使用用語の問題

 「ゴミ穴」、「ごみ穴」は、研究者間や発掘調査報告書には一般的な用語として用いられ、『図説  江戸考古学事典』においても「ごみ穴」として取り上げられている。しかし、使用者の認識は各 人の概念規定によるため、同じ用語であっても厳密的には相違がみられる。また、発掘調査報告書 には、遺構の性格を当初から「ゴミ穴」、「ごみ穴」と記載しているものがみられる。用語表記に 片仮名か平仮名を使用するかは、各調査会や各人の目的意識や認識の相違によるものとして、遺構 の規模や形態から「ゴミ穴」、「ごみ穴」と規定されるわけではないので、あくまでも「土坑」と いう用語を用いて、発掘調査を実施した結果、得られた覆土堆積状況や出土遺物様相などの情報か ら判断した結果として「ゴミ穴」、「ごみ穴」の可能性が高いとの記載にした方がよいのでないだ ろうか。

 次に「地下室(ちかむろ)」はどうであろうか。この用語は最近、一般的になりつつあるが、「地 下式土坑」、「地下式坑」、「地下室(ちかしつ)」という用語も用いられている。「地下室(ちかむろ)」は遺構の形態や構造を示しており、機能で規定される用語ではないが、あまりにも広義的で ある。地下室は、何かの目的を有し、意識的に構築されたのは明らかで、地下に何か施設が設けら れた遺構でいわば「(施設付)地下式坑」ともいえるのではないだろうか。

 この他には「高級品」、「茶碗」、「飯茶碗」などがあげられる。特に後者二例については近現代 考古学では、一般的に使用されている。たしかに、器種のなかには機能が想定される資料がみられ るが、やはり、考古学的な手法を用いて調査、研究を進めるうえでは使用されるのに抵抗感が感じ られる。なお、これは余談ではあるが、近年、器種名に「向付」が散見されるが、この用語は器種 名を表したものではないので、使用を避けるべきであろう。

2.廃棄行為の一様相

 東京大学本郷構内遺跡では、ゴミの処理システムが屋敷地内で完結していたとの報告がなされた。 もちろん、時期的なこともあろうが、東京大学本郷構内遺跡の東側に隣接する台東区池之端七軒町 遺跡(慶安寺跡)では、D−7 一括例から加賀藩前田家の家紋である梅鉢文の軒丸瓦が出土してい る。また、同例では木製品の漆椀、高杯、蓋、刷毛や漆継ぎで修繕された龍泉窯系青磁皿(15世紀 中葉〜16世紀前半)の口縁部片も報告されている(第1図)。また、縄文土器、弥生土器平底甕の) 底部片、弥生時代後期〜古墳時代前期の甕片、古墳時代後期(6世紀中〜後半)の黒色土器の坏片、 土師器甕、平安時代後期の土師器高台付碗の底部片などの近世以前の土器も整地層の埋土、土坑や 埋葬施設内、表土掘削時に出土しており、東京大学本郷構内遺跡や弥生町遺跡群との関係が指摘さ れ、ダイナミックな土の移動があった可能性が想起される。

 また、屋敷地の相対替えの際に人と伴にものが動く可能性が考えられる。発掘調査事例としては 渋谷区千駄ヶ谷五丁目遺跡と新宿区市谷薬王寺町遺跡の紀州田辺城城主安藤家と旗本横田家の相対 替え例などがある。前例では遺構、遺物が確認されたが、後例では遺構しか検出されなかったため、 遺跡間接合は実施されることはなかった。もし、今後仮に相対替え例の両遺跡間で検討が行われれ ば、新地へ「持っていくもの、旧地に「廃棄されたもの」など、生活道具の買え替えの問題やそ」 の拝領者が所有していた品物に対する価値観などが明らかになるのではないだろうか。

3.出土遺物の数量的資料化

 発掘調査報告書は、調査結果を第三者に情報を提供する媒体であり、図書館や研究機関などの公 共機関に配巻され、社会教育的に情報を公開し、共有するものである。それでは各行政区における 発掘調査報告書の現状はどうであろうか。最近の江戸遺跡に関する発掘調査報告書を対象にみると、 総頁数に明らかな格差が認められる。これは、今日の経済状態の影響が深く関係しているものとも 解釈できるが、各行政区や研究機関における埋蔵文化財に対するあり方の相違が反映されていると も推測される。このような条件下では、全ての発掘調査事例に対し、出土遺物の数量を資料化し、 発掘調査報告書に提示することは非常に困難であると考えられる。また、現在、算定方法について は、目的の相違から複数の方法が用いられ、継続的に行われているところもあり、各算定方法から 得られた結果については、直接的に比較、検討することが行えないのが現状である。仮にその誤差 を新たな方法を用いて、比較、検討できる領域まで高めたことができたとしても、それはごく限ら れた階層や地域によるものになってしまうのではないだろうか。

 このようなことから、江戸遺跡全体を対象とした場合、接合作業の前段階あるいは接合作業後に おける材質別の破片数と重量の提示になるのではないだろうか。しかし、両方法には同一個体を重 複して集計してしまう可能性があり、さらに後者の場合は、全検出遺構を対象に遺構間接合まで実 施したか否かの問題がある。また、調査担当者の評価の相違が懸念されるが、材質別でも推定生産 単位や器種、器形などの提示も必要と考えられる。

 次に個体数の復元については、現在、遺物の遺存度や底部を基にした算定方法が試みられている が、短絡的に比較することができないのが現状である。また、統一方法の設定が問題になろうが、 大会でも提示されたように地域や階層によって明らかにゴミ処理システムが異なるため、各遺跡に 応じた各々の算定方法が用いられるべきであろう。しかし、江戸遺跡全体を対象とした場合の統一 方法を敢えて模索するならば、接合作業後における底部や摘み部などが完形に至った数量のみを集 計するものであろう。なお、本方法の場合、完形に至らなかった底部や摘み部における遺存度から の個体数への変換は、仮にある一定の基準を詳細に設定したとしても、その作業に介在した人数分 だけの価値観が反映されてしまい、一貫性に欠けてしまうため、行わないものとする。

 重量の評価については、ひとつの試みとして、統計学的分析が提示された。分析は主成分分析と クラスタ−分析が併用されている。主成分分析では出土遺物の総重量に対するもので、特に瓦の重 量が重要な項目となる。しかし、瓦の場合、必ずしも数量と重量の間に相関関係が成立しないこと や出土した瓦を全て取り上げ、数量的資料化を継続的に行うことが可能なのか否かという瓦が有す る性格や発掘、整理調査体制の問題の方が大きいといえる。なお、発表要旨では特に触れられては いなかったが、瓦の重量は吸水状態の重量とのことである。

4.次大会に向けて

 次大会は遺物からみた廃棄行為の復元が期待されるが、その際、今回行われたようなワ−キング グル−プ活動が常設性ではないことからこの場を借りてふれたい。

 おそらく、出土遺物からみた広義的なリサイクルなどのライフサイクルに関する事項などが取り 上げられるのであろうが、江戸時代は「もの」を個人で所有するものではなく、貸本や葬儀道具、 貸家など必要に応じてレンタルやリ−スされることが普遍的に行われていたため、そちらからの何 らかの報告も期待される。

 また、焼き継ぎや漆継ぎは破損したものを修繕し、再び使用できる状態にするものである。元来、 焼き継ぎや漆継ぎ行為は、個人の思い入れがある品物やいわゆる揃い品を維持するために行われき たとの見解があるが、果たしてそうであろうか。もちろん、そういう一面も有していることは確か であろうが、これは、考古学的に提示するのが、非常に困難ではあるが、修繕業者が破損したもの を買い取りあるいは回収し、修繕して、そのものを販売するいわゆるセトモノ屋を兼ねていた可能 性は考えられないだろうか。仮にそう考えるならば、修繕する当初から焼き継ぎに透明に近い材料 を選択的に使用し、高台隅や底部などの目立たない場所にいわゆる焼き継ぎ印を記すのも頷けるの ではないだろうか。

 東京大学本郷構内遺跡工学部1号館SK01例からは徳利や御殿の宴会に出されたアワビが多量に出 土している。徳利は「貧乏徳利」と呼称され、酒店が一定量の量り売りを行うことを目的としたも のでいわゆる「通い徳利」としての性格が強いといわれている。しかし、発掘調査では徳利が完形 品に近い状態で大量に出土する事例もあるため、実際は酒店から購入者への一方的なものであった ことが指摘されている。ここでは液体容器という機能を維持したまま、再利用されていた一例を紹 介したい。それは、ヘチマから摂取した水を徳利に溜めるというものである(第2図、第3図。) この水は化粧水や咳止めに広く用いられ、化粧水は「美人水」とも呼称さていたようである。また、 余談ではあるが、大正期に竹久夢二が広告を書いた「へちまコロン」という化粧水が商品化されて いる。

 アワビは食するだけではなく、宴会などで酒器としても利用されている。これは「うかむせ」と 呼称されるもので、大坂の天王寺の西、新清水の北坂にあった酒店が所有した貝殻の大盃(アワビ やホラガイ)に名付けられたもの(第4図)で、緋色の袱紗に入れられ、所蔵されていた(第5図)。 「うかむせ」は渡辺信一郎氏によると「身を捨ててこそ浮む瀬もあれ」という諺に由来し「一身、 を犠牲にする覚悟があってこそ、物事は成就することができる」という意味である。つまり、酒が 大量に注がれた大盃を飲み干すには相当の覚悟が必要で、もし、飲み干すことができたならば酒豪 として名をあげられるということである。大盃の容量は七合五半である。この量は、瀬戸・美濃系 陶器灰釉徳利に換算すると、二合半徳利三本分あるいは二合半徳利一本分+五合徳利一本分に相当 する。ちなみに、酒店の出店が安永九(1780)年に浅草諏訪町(現、台東区駒形二丁目付近)に開 店している(第6図。史料の中央左に膳の上に置かれた貝盃やまさに貝盃で酒を飲んでいる様子) が描かれている。

 この他には差歯下駄における歯の付け替え、井戸側などにみられる古樽、火事場の釘、金物拾い、 浅草近辺で漉き返された鼠色の再生紙(いわゆる浅草紙)など類例を挙げれば数多くあげられる。 このうち、火事場の釘、金物拾いについては、江戸東京博物館において江戸開府400年、開館10 周 年を記念して開催された「大江戸八百八町展」に出品された「江戸失火消防ノ景」(展示図録P.82、 二段目右端)に描かれている。この絵巻物は、梅沢晴峨が文政12(1829)年3月21日に出火した佐 久間町(現、千代田区神田佐久間町)の火事の様子を描いたもので、周囲の人とは明らかに服装が 異なる男性三人がほっかむりをし、棒状道具などで何かを拾い上げている様子がみられる。おそら く、近くに置いてあるカゴに入れながら、回収しているのであろう。

 このような事例から、江戸時代の人々は資源を再資源化し、その流通に関わることで生活を営ん でいたものと推測されるが、その反面、江戸時代のものが再資源化しやすい素材で作られいただけ ということも事実である。また、銭貨が墓壙やいわゆる埋納遺構以外からも出土している。これは、 捨てようと思って、捨てられたのではなく、捨てられた状態になってしまった事例もあろうが、仮 に銭貨の出土遺構が日常のゴミの廃棄パタ−ンに位置づけられた場合、銭貨が日常的に捨てられて いたことになるのであろうか。おそらく、これは、日常のゴミの廃棄パタ−ンにおける複数回の掘 り直しのなかに非日常的廃棄行為が介在している可能性があると想起される。このようなことから 出土遺物をゴミと読み替えた場合、出土遺物全体に対して「日常のゴミ」と呼称する際は慎重に、 進めたほうがよいのではないだろうか。

5.今後の期待

 東京大学本郷構内遺跡や新宿区南山伏町遺跡は、発掘調査範囲が屋敷地の大部分を占め、拝領者 の拝領期間が長期間であることなどの条件に恵まれた調査事例である。これらの条件に該当するも のとして注目されるのが、尾張藩上屋敷跡遺跡である。現在、当遺跡は各調査地点ごとに発掘調査 報告書が刊行されているが、最終的な総論的な調査成果の提示も求められる。また、千代田区外神 田四丁目遺跡も町屋のゴミ処理システムを知るうえで重要視される事例である。両遺跡は東京都埋 蔵文化財センタ−が発掘調査を担っていることからも、その期待は大きいと思われる。

 大会では近現代の廃棄行為例や近世のゴミ処理システムを考えるうえで近代の様相を理解する必 要性など近世に留まらず、近現代を含めた議論がなされた。

 江戸遺跡研究会において近現代考古学を取り扱うことは、近年の大会や当研究会が編集した『図 説江戸考古学研究事典』にもみられる。また、発掘調査報告書においても近現代を取り扱うとこ ろが多くなり、近世〜近代、現代を通した考察が行われているところもある。このような現状に応 じて、江戸遺跡研究会は、「江戸・東京遺跡研究会」、「江戸・東京考古学研究会」、「近世、近現代考古学研究会」などと次段階に進み、広く窓口を設けることで、情報の連絡もごく一部に留まらず、 活発かつ広く紹介される環境が整うのではないだろうか。

 以上、とりとめもなく、私見を述べさせて頂いたが、大会では都市と近郊農村、都市のなかでも 階層や地域によってゴミの処理システムの相違が提示された。今後は新たな発掘事例や史料提示な どが行われ、議論がさらに深まることが望まれる。また、今大会では触れることができなかった側 面からのアプロ−チが近年に開催されることが期待される(2003年2月12日稿了)。

 文末ではありますが、この場の機会をつくって頂いた世話人の橋口定志氏には深謝いたします。
 また、最後になりましたが、江戸遺跡研究会に発足当初からご指導、ご助言を賜った故平井尚志 先生のご冥福をお祈り致します。

〔参考文献〕

△TOP of the page
江戸遺跡研究会第88回例会は、2002年11月12日(火)午後6 時30 分より江戸東京博物館会議室に て行われ、及川良彦氏より、以下の内容が報告されました。

外神田四丁目遺跡
−秋葉原駅付近土地区画整理事業に伴う発掘調査−

栗城譲一・小島正裕・竹花宏之・及川良彦(東京都埋蔵文化財センター)

遺跡名:外神田四丁目遺跡所在地:千代田区外神田四丁目14 番施工者:東京都財務局
事業名:秋葉原駅付近区画整理事業に伴う発掘調査調査主体:東京都埋蔵文化財センター
発掘期間:平成13年6月25日から平成14年3月31日
整理期間:平成14年4月1日から平成16年3月31日(予定)

1.はじめに

 本遺跡はJR 秋葉原駅前の旧神田青果市場跡地に位置し(資料1)、調査前は都財務局が管理する都 有地で東京都駐車場公社の駐車場として使用されていた。この都有地については都建設局の秋葉原 駅付近区画整理事業計画があり、都教育委員会を通じて当センターに調査依頼があった。これを受 けて当センターでは秋葉原分室を設立し、発掘調査を行った。

 なお、本遺跡調査に先立って、遺跡の有無と本調査の範囲を確認するための試掘調査が千代田区 教育委員会により実施された。敷地面積10,826m2の範囲は、江戸時代の複数の絵図によると、江戸 時代の武家地(大名と旗本屋敷)と町地が該当し(資料2 、試掘調査により4 面以上の江戸時代) の生活面があることが確認された。しかも、標高約3.5m の低地に位置するため、木製品をはじめと する植物質の遺物や建築材などが良好に遺存することが確認された。ただし、旧神田青果市場の建 物基礎は地表下2m に及んでいると試掘調査の結果が報告されている。本調査の設計はその報告書 を参考とした。実際の本発掘調査は、当時の通路部分5,485m2について実施した(資料6)。

2.調査の経過

(1)発掘調査

 当初、調査は6月1日からを予定していたが、施行者の準備の遅れ、駐車場公社との調整、地元 説明会などの関係から6月25日からとなり、スタートで約3 週間の損失となった。調査の進捗につ いては秋葉原地区埋蔵文化財発掘調査定例会を月1回開催するとともに、発掘調査と平行して支障 物の撤去工事、神田消防署建設工事、旧国鉄清算事業団用地の工事が行われる予定となっており、 秋葉原地区工事調整会議に参加することとした。

 発掘調査は、駐車場公社との調整から2 期にわけて行った。

期調査は6月より10月までの予定で、主に調査区の西側にあたるA ・B ・C ・F ・G ・H ・I ・P区を 対象に行った。ところが、準備工の段階で、千代田区野鳥と自然の会より調査対象地に隣接しコチ ドリが繁殖中であるとの指摘があり、繁殖終了までの慎重調査の要望書が都知事宛へ出された。そ のため、影響のでない範囲での準備工を行い、コチドリの巣立ちを待って、まず、支障物の撤去工 事と競合するH ・I ・P区に着手した。コチドリに配慮したA ・B ・C区については約3 週間の遅れとな った。

 当初調査員1 人でスタートしたが、7月1日より調査員2名体制とした。遺跡の残り具合は一部、 水道管やガス管等の埋設物により破壊されていたが、予想以上に遺跡の残存状況は良いことが明ら かとなり、遺物量も予想をはるかに上回る出土となった。このため、当初の工程より大幅な遅れが 見込まれることから、土曜日も作業を行うこととした。7月は例年にない猛暑のため連日の作業に より、作業員の疲労も激しく、作業員が数日働くと辞めてしまう状況が続き、作業員の確保が課題 となった。

 8月より調査員は3名、作業員は4班70名体制をとった。期調査予定分すべての地点について 発掘調査に着手した。その結果、試掘の調査報告以上に江戸時代の生活面が多いことが判明した。

 発生残土は基本的には場外搬出とし、期調査終了地点については期調査発生土で埋め戻しとい う前提であった。

 9月はH区において宝永の火山灰を検出し、各時期の年代比定の定点が確定でき、絵図との照合 も可能となった。この時期は発掘調査に加え、10月の期調査及びプレハブ事務所の移転の準備を 行った。障害物撤去工事との関連で、調査終了地点は埋め戻しが必要となり、残土の搬出をおさえ 場内で仮置きすることとなった。そのため、残土置場の確保から発掘調査中のF区については凍結 する必要が出てきた。各調査区では終了目前に達する地点もあり、その結果当初の予想の4 面の江 戸時代の遺構面の倍以上の8 面前後の遺構面が残されていることが明らかとなった。このため、調 査方法の見直し、発掘作業体制の全面的な見直しが必要となった。この時期は作業員90名5班体制。

 10月は期調査の開始とプレハブの移設を行い、期終了地点の埋め戻しも開始した。作業体制 の面では、作業員の増員体制をとるも、相変わらず新規採用者はその半分以上が数日で辞めること が多く、固定メンバーによる安定的な作業が望めない状態であった。

 11月は期調査の未終了部分と期調査を平行して実施し、期調査終了部分については埋め戻 しを行った。11月は作業員120名体制を取る予定であったが、実態は110名6班体制であった。

 12月は発掘調査の遅れのため全体の発掘体制の見直しを行った。調査員3名体制を4名体制に変 更し、作業員120名体制をとるとともに、期調査の遅れと期調査の対応のため調査区は全面 展開となった。12月15日(土)には遺跡現地説明会を開催した。

 1月は作業員7班体制を取るとともに、作業員の増加に対応するため世話役を1名増員し2名体 制とした。また、従前以上に大型重機の導入をはかり、調査の迅速化に努めた。ところが、O区とP 区の境付近で江戸時代の地層の下より縄文時代の貝層が発見され、縄文時代後期の土器と石器が伴 うことがわかり、早急に関係者間で協議を行った。貝層の精査の結果、貝層自体はハマグリやアサ リを主体とした縄文時代のものであるが、貝層中に一部江戸時代の下駄や焼物が混じることが明ら-13- かとなった。江戸時代の前半に付近の台地の貝塚が埋め立て用土取りの対象となり、遺跡内に大量 の土砂とともに持ち込まれたと判断された。そこで、2 次堆積とはいえ、都内で貝塚が発見される ことは極めて稀なため、緊急に範囲確認調査を行った。その結果、貝層は地表下3?4m の位置に範 囲は約225m2あり、実際に調査可能な面積は約200m2であった。

 2月は障害物撤去工事が遅れていたM区も調査可能となり、8班体制とした。各地区とも調査の 最盛期で人員に余裕がなく、3月末終了に向けて残すところ2 ヶ月では、M区の終了は厳しい状況 となった。

 3月は9班体制をとり、遅れ気味の地点について集中的に支援体制をとった。調査終了後の埋め 戻し土を確保するために、調査区に接する工事終了地点の土地を借用し、仮置場とした。3月末日 をもって、調査を終了し、一部埋め戻しと安全対策をとった。

3.調査対象面積と調査終了面積

調査終了面積は以下の通りである。
 敷地面積は10,826m2
 調査対象面積は5,485m2
 調査終了面積は5,485m2

 敷地面積と調査対象面積の差は、調査対象地域内に旧神田青果市場の建物基礎が残存し、しかも 基礎は大型で頑丈であり地表下2m に達していたため、発掘調査が不可能であったことによる。

4.調査の成果

 本遺跡は、縄文時代と江戸時代の遺構、遺物が主体であった。縄文時代は後期を中心とした貝層 が検出され、多量のハマグリを中心とした多種類の貝とともに土器・石器・獣骨等が見つかってい る。しかし、この貝層は縄文時代に現位置で形成されたものではなく、他の地域に存在した貝塚が 江戸時代の前期に埋め立て用の土砂と一緒に当遺跡内に運び込まれたことが、土層の観察及び縄文 土器とともに出土した江戸時代の遺物から推定された(資料3)。

 江戸時代では、武家地である大名屋敷、旗本屋敷、町地である町人屋敷が8 面検出された。当遺 跡は江戸時代の絵図によると、大きく調査区南端付近を東西に走る道路と調査区中央を南北に鈎の 手状に走る南北道路により三つないし四つの地点に分かれ(資料6) 、この区分が江戸時代前期か) ら幕末・明治まで基本的に踏襲されていた。大名屋敷は江戸の前期から中期まで東西道路の南側に、 郡上八幡城主遠藤氏屋敷が、南北道路東西には浜松城主本庄氏、越後蒲原の溝口氏、三河田原城主 三宅氏などが位置する。旗本屋敷は南北道路の東西に位置し、東側では幕末まで武家地として続き、 西側では江戸時代の前期から中期頃までは旗本屋敷であったが、それ以降は町地となる。町地であ る神田山本町は明治まで続く。東西道路の南側でも江戸中期には旗本屋敷から町地にかわり、相生 町が成立する。

 発掘調査では街路とそれに付属する石垣や堀により大まかな屋敷割をつかむことができた。以下 に発掘調査の概略と出土遺物について記すこととする。

(1)発掘調査

検出遺構

 今回の調査では、江戸初期の秋葉原周辺は、湿地や沼地状の地形を呈していたことが地層の観察 から明らかとなった。各地点の最下層は砂もしくは砂利層となり、この面からは遺物の出土はない。 最下層の砂層や砂利層の上には灰色から黒色の粘質土が検出され、長期間帯水するか非常に湿った 地形であったことがわかる。こうした、湿地を埋め立てて、江戸の町が神田川の北側に計画的に拡 大されたことが今回の調査で明らかとなった。また、複数の火災面と思われる焼土層が各地区で検 出されている。

 最も古い遺構は、江戸時代前期の道路下から検出された人骨を伴う土坑である。次に古い遺構は 当遺跡を大規模に埋め立て屋敷割する以前の大規模な溝である。東西南北方向に比較的企画性をも って検出されていることから、計画的な地割が予想された。次ぎは明暦年間に描かれた絵図にある、 大名・旗本屋敷とそれを区画した道路及び石垣を伴う堀および区画溝である。道路に面して屋敷地 を巡るように検出された石垣は4?5段残存しており、それぞれ面している道路の両脇で積み方や 石の企画が微妙に変化していた。江戸前期の旗本屋敷の構造については今後の整理作業の結果を待 って検討すべきであるが、特徴の一つとして大規模なゴミ穴と多量の出土遺物があげられる。

 江戸中期では宝永の火山灰(1707年降下)が各調査地点で検出されており、今回の各地点の遺構 面の整合性をつかむキーポイントとなっている。江戸中期前半では道路下で検出された本管と思わ れる上水の木樋や切り替え桝、そこから支線のように広がる木樋や竹樋があげられる。このうち、 本管と思われる石垣下から検出された木樋の一部には銅板が巻き付けられており、今後の上水研究 に良好な資料となった(資料4) 。また、この時期と思われる庭園遺構の一部と思われる池もJ?O 区にかけて数時期に渡って検出されている。中期の屋敷は礎石をもつ建物跡やそれに付随する井戸、 土坑、ゴミ穴などがある。

 後期の町家では三和土と思われる硬化した土間や下水の板溝、路地と思われる石敷遺構、埋桶、 井戸、胞衣埋納容器などから大まかな町割が推定できた。しかし、この時期は遺構面の修復が著し いためか、遺構の重複が激しく、1 面の調査中に数時期にわたる遺構を検出する場合が多く、いわ ゆる長屋生活の復元は困難であった。

 幕末から明治にかけては、礎石建物やいわゆる土蔵建物が多く検出され、この他注目すべき石柱 2 種類(資料5、6 几号水準点と境界杭)が道路に沿って埋設されていた。

 この他に、各時期の生活面をまたがるように多数の地割れや段差が認められ、石垣の崩落が認め られるなど、江戸時代を通じて幾度かの大規模な地震が起きていたことが明かとなった。

検出遺物

 発掘調査によって遺物総数はコンテナ3,900箱、約78万点である。主な遺物は以下の通りである。

縄文時代

 縄文時代中期?後期?晩期の土器は加曽利E式、堀之内式、加曽利B式、曽谷式、安行1式、安行2 式、安行3式があり、堀之内式と加曽利B式土器が主体となる。土製品では土偶・土版・耳栓があ-15- る。石器では磨製石斧、打製石斧、石棒がある。種類は不明ながら獣魚骨も出土し、加工された骨 角製品が含まれている。この他に多量の貝がある。ハマグリを主体とし、シオフキ・オキシジミ・ サルボウ・マガキ・イタボガキ・アサリ・ハイガイ・アカニシなどの主鹹性のものと汽水性のヤマ トシジミが少量含まれる。

江戸時代

 江戸時代の遺物は本遺跡の主体を占めるもので、各種の素材の遺物が出土している。

陶磁器
土器
土製品(人形、ミニチュア、泥面子など)
瓦(軒瓦、鬼瓦)
木製品(下駄、櫛、漆器、曲げ物、箒、木樋、竹樋)
布製品(巾着袋、漆こし布)
金属製品(銭貨、庖丁、刀子、錐、飾り金具、印篭)
骨角製品(緒締、装飾品、鼈甲)
石製品(砥石、硯、石臼、石塔、印鑑)
ガラス製品(かんざし)
動物遺存体(イヌ、トリ、魚類)、
植物遺存体(モモ、ウリ、クルミ等種子)
火山灰(宝永の火山灰)

 これらの中には、いくつかの注目される遺物がある。まず、寛永・明暦・寛文といった、江戸前 期の年号が記された硯(資料5)の出土があげられる。本遺跡の埋立時期を知り得る資料となる。

 O区から出土した一分金の出土も重要である。宝永の火山灰が発見された生活面に伴うもので享保 一分金と呼ばれるものである。印篭の出土も注目される。現在でも開閉可能な良好な遺存状態を示 している。この他にも、薬研、銅板が巻かれた木樋などがある。なお、墨書が残る木製品などは今 後の整理段階で解読していく予定である。

(2)整理作業

 平成13年9月より1 次整理作業の水洗い・注記を開始した。当初の予定は7月であったが、現場 作業を優先したため、着手が遅れた。また、遺物量が予想以上となったため、遺物の水洗い外部委 託を実施した。注記は注記マシーン(インクジェット・プリンター)を2台導入し、主に陶磁器類 の注記にあて、他の土器類や小物については手注記とした。

 木製品については、とり上げ後に選別し、漆器や他の重要と思われるものについては、ビニール パックで密閉し、下駄や桶といった数が比較的多いものについては自然乾燥を行い、今後の保存処 理の下準備とした。

 平成14年4月よりは大塚分室で整理作業を開始した。平行して現地で遺物の洗浄・選別作業を6 月まで行った。現在、大塚分室にて調査員3名、作業員40名体制で整理を継続中である。報告書刊-16- 行予定は平成16年を予定している。

5.遺跡現地説明会

 一般の都民にも広く遺跡調査の内容や成果を知っていただくために、遺跡現地説明会を平成13年 12月15日(土)に開催した。遺跡の現地説明会については、地元千代田区教育委員会の強い要望と、 東京都教育委員会への電話の問い合わせがあり、発掘調査との進捗をも考慮して実施した。遺跡が 秋葉原駅前であり、JR 秋葉原駅のホームからも毎日遺跡の発掘状況が覗けることから、自然に問い 合わせが多かったと思われる。見学会の周知方法は、都埋文センターの広報誌、千代田区の広報誌、 及び千代田区の広報課を通じて行い、大手新聞社の事前取材と記事による紹介があった。見学用の パンフレットは1,200部用意した。今回は、従来の現地説明会とはことなり、実際に発掘している 作業状況を見てもらうことを主眼にした。そのため、当日は平日と同様大型重機も動き、作業員も 土を掘り下げている通常作業を解説者4名で説明した。この他、倉庫内で出土品の展示とパネルを 使用した解説を行った。当日の参加者は1,232名であった。参加者のアンケートは145枚あり、回収 率は11.7%であった。(文責 及川良彦)

△TOP of the page

(補遺)どんぶり問題・わりばし思案(六)
「蛎殻屋根」をめぐって

寺島孝一(当会世話人代表)

 『会報』No.88 の『蛎殻屋根」をめぐって』では『守貞謾稿』にみえる「天保末の府命」を「、 洩らしてしまった。ここにその触れを紹介すると共に、気のついたことを述べたい。

 まず、この天保十三年(1842)の触れでは、もはや「蛎殻」について全く触れられていないこと を改めて確認したい。残された触れで最後に蛎殻にふれた、明和九年(1772)の「瓦葺蛎殻葺等場 所々御定被仰出候處」から70年後であるが、火災の件数や規模がそれほど小さくなっているとも思 えない。

 『守貞謾稿』を始めとして、蛎殻屋根に全く触れていない幕末の諸随筆とも符合して、具合はた いへんよいのだが、その原因は「世の中かわった」としか言いようがないのだろうか?

 また、触れの対象が、いわゆる御府内から「番外新吉原町品川十八ケ寺門前(の)名主共」へ まで広がっていることが注目される。それは『守貞謾稿』に「初めて中山道より出府し、板橋駅を 通りし時、当駅の遊女屋ども皆茅葺なるを(中略)近年これを見れば皆立派の瓦葺となり」とあ、 るように、この時期に急速に防火意識の「底上げ」がなされた反面、板葺きのまま放置された家々 も多かったということなのだろうか。

(史料)

 天保十三寅年四月廿九日組々世話掛り壹人宛鳥居甲斐守様(忠耀)え被召出、左之通被仰渡候ニ
付、家主連判取置。

壹番組より二拾番組迄世話掛り
名 主 共
番外新吉原品川十八ケ寺門前
名 主 共

 町々家作之儀、土蔵造塗家等ニ可致旨、前々より度々相触置候處、年暦を経、忘却致候向も有之
哉、近年塗家造等稀ニて柿葺多く、出火之節、消防之為不宜候間、以来普請修復等之節、前々申渡
置候通、土蔵又は塗家ニ可致候。乍然一同ニ行届申間敷、先づ表通り之分、追々ニ土蔵造塗家等ニ
相直、裏家之儀も柿葺之分は瓦葺ニ致、是又往々は塗家等ニ相直し、造作等専ら質素ニ致、往還は
勿論、横町裏町共、猥ニ張出し建足等、一切不致、都て形容ニ不拘、今般厚御主意之趣相守、末々
迄も行届候様可致。
 右之通被仰渡、奉畏候。為後日仍如件。
  天保十三寅年四月廿九日

五番町世話掛り南伝馬町
名主 新右衛門
外組々壹人宛 (撰要永久録〔東京市史稿』市街篇第三十九〕)

▲UP to the index △TOP of the page