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江戸遺跡研究会会報 No.83

2001年12月17日発行
江戸遺跡研究会

▼第83回例会の報告…坂町遺跡
第81回例会の報告…飯田町遺跡



■江戸遺跡研究会第83回例会は、2001年11月15日(木)18:30より江戸東京博物館学習室にて行われ、小川祐司氏より「新宿区坂町遺跡−坂町遺跡からみる廃棄のあり方−」の報告をいただきました。

新宿区 坂町遺跡
−坂町遺跡から見る廃棄のあり方−

小川祐司
(財)新宿区生涯学習財団

はじめに

 新宿区坂町遺跡は、財団法人新宿区生涯学習財団 新宿歴史博物館が発掘調査を実施したものである。調査期間は平成13年1月24日から同年3月9日まで現地調査を行った。この調査では敷地の半分を占める大型のごみ穴が検出されており、その中から18世紀後葉の遺物が大量に検出されている。この中には生活残滓や生産に関係する遺物も含まれている。今回の発表では、このごみ穴から検出された遺物を中心に見ていきたい。現在は整理作業途中にあるため、これまで明らかになった範囲での概要報告とさせて頂きたい。なお報告書刊行予定は平成14年3月末日の予定である。

遺跡の立地(図1)

 本遺跡は東京都新宿区坂町1−1に所在し、新宿区では南東部の四谷地域にあたる。遺跡を含む周辺地域は、武蔵野台地の東端部にあり、神田川と目黒川に挟まれた淀橋台上に位置する。淀橋台は、より長く浸食を受けたため河谷が大きく複雑に入り組んでいる。また当該地の北側には旧紅葉川(現 靖国通り)が流れており、起伏に富んだ地形をなしている。南には甲州方面などから江戸へ大量の生活物資が行き交う往来の激しい街道であったことが知られる四谷大通り(現 新宿通り)ある。周辺には三栄町遺跡や四谷三丁目遺跡、荒木町遺跡などといった大縄地が多く集まる地域である。

遺跡の歴史的背景(図2〜3 表1)

 本遺跡は御持組と御先手組にまたがる土地である。御持組は持筒組と持弓組に分かれており、『明良帯録』に「此場は武勇の誉の人にて、御床机の左右に居て、帷幕の内座を離れず、御旄のとよみをはこる、」とあるように戦時の鉄砲隊と弓隊のことである。『吏徴』別録・『大猷院殿御実記』によれば、その沿革は元和9年(1623)6月1日に斎藤與三右衛門三存ほか3名が持組頭に任じられている。この時は持筒3組・持弓1組であった。ただし。「東職記聞」には慶長12年(1607)に持筒、元和元年(1615)には持弓頭が同職に任命されていた説もある。)。その後、寛永元年(1624)に持弓組が2組、寛永9年には持筒組が1組増加し、計持筒4組、持弓3組となり、以後定着した。各組の1組は慶安3年(1650)に西之丸付となる。西之丸付が設置されないときは全ての組が本丸付となるのが慣例であった。平時の職掌は江戸城本丸の中之門、西之丸の中仕切門、二之丸の銅門等の警護が役職であった。組織構成は頭が1人(甫布衣・1500石高)のもとに与力が10騎、同心がはじめは50人が属し、正徳期には55人に増員された(55人に増員された時期については不明であるが、正徳期の『御家人分限帳』に初見される。)。禄は与力が80石、同心が30俵3人扶持。その後、持弓組は文久2年(1862)、持筒組は慶応2年(1866)に廃止された。

 御先手組は弓組と鉄砲組からなり、『明良帯録』によると、「此場は武勇誉のある人の勤場也、隊卒を率い、非常を守る、」とあるように、持組と同じく戦時の鉄砲隊・弓隊でのことで、その名の通り先陣を務めた。『吏徴』別録によれば、寛永9年(1632)に弓10組、鉄砲15組を置いたが、後に弓9組、鉄砲20組となり、別に西之丸に弓2組、鉄砲4組が置かれていた。平時の職掌は蓮池・平川・下梅林・紅葉山下・坂下などの諸門の警護や、将軍家の寛永寺・増上寺参詣際、警備の任にあたっていた。また、組の内の1組は火付盗賊改として、江戸市中の防火と警察の役を果たした。さらに、諸大名の依頼を受けて願達を取り次ぐ場合もあった。組織構成は頭1人(布衣・1500石高)に与力6ないし10騎、同心30ないし50人が属していた。禄は組によって異なるが、与力が給地200石から現米80石、同心が30俵2人扶持。その後、慶応2年(1866)に廃止された。

遺跡の概観(図4)

 本遺跡の調査対象面積は約780m2、確認面は標高24.5m前後であった。検出された陶磁器の製作年代は18世紀中葉から幕末期にかけてと年代幅が大きいが、量的には18世紀後半のものが多く見受けられる。遺構の分布は調査区東側から南側にかけて地下室やごみ穴が集中しており、特に南東部では大型ごみ穴や地下室などが切りあっているのが確認されている。また東側中央付近では、井戸が3基(うち近代1基)が検出されている。調査区の南側では地下室が多く見られるが、北側では主に植栽痕が検出されている。

 遺構の分布からみると、遺構の主軸方向がおおむね東西方向にあり、また大ごみ穴の脇を平行して並ぶ柱穴列が、東西方向に並んでいることから縦割りのものと推測できよう。

 遺構は全部で157基が検出されており、その内訳は以下の通りである。

 大型土坑:1  土坑:43   地下室:13  大型ごみ穴:1   ごみ穴:11
 植栽痕:10   小穴:74   井戸:2   胞衣皿埋設遺構:1 甕埋設遺構:1

 本遺跡の総遺物量は現在集計中であり、点数・重量といった細かい数値は不明であるが、天箱総数では616箱になる。陶磁土器の内訳は磁器:87 陶器178 b (火石)器30 土器107箱である。

1号遺構

 本遺構は階段付の地下室である。北側は4号遺構に切られ、上部は近代基礎により削平されている。規模は長軸3.20m、短軸4.90m、確認面からの深さは2.28mである。階段は7段で東から入りは北に折れており、上部5段は東西方向、下部2段は南北方向である。壁面、床面とも調整は粗く、床面は北側に傾斜している。

2号遺構

 本遺構は調査区の南側に位置するフラスコ状の地下室である。1号遺構に切られる遺構で、上部は近代基礎により削平されているため状態は良くない。規模は開口部の長軸1.15m、短軸0.65m(残存値)、確認面からの深さは1.47mで、底面は2.04m×2.12mの方形を呈する。床面の調整は丁寧である。一方南側の壁面前面には、一面に熊手状の工具痕が見受けられる。一本の幅は1.5cmから2.0cmで長さは5cmから10cm程度である。奥行きは1.5cmから2.0cmほどである。

17号遺構

 本遺構は調査区の東側中央部に位置する地下室である。西側は近代基礎により削平されている。北側は18号遺構を切っている。規模は約2.40mの正方形を呈する。確認面からの深さは2.30mである。壁面の調整は粗く、幅12〜13cmの工具痕が顕著に見られる。底面は比較的丁寧で東に向け緩やかに傾斜している。東側壁面には袋状の小穴があり、用途は不明である。奧の最大幅は42cm、高さ25cm、奥行き48cmである。

18号遺構

 本遺構は調査区の東側中央部に位置する階段付地下室である。南側は17号遺構に切られている。規模は長軸3.83m、短軸2.50m、確認面からの深さは2.50mである。底面は長軸2.50m、短軸2.15mの方形である。階段は7段であるが、床面から1段目は切り出しではなく、後から付け加えたものである。

27-b号遺構

 本遺構は調査区の北東部に位置する胞衣皿埋納遺構である。規模は長軸0.37m、短軸0.32m、確認面からの深さは最大で0.37mである。壁面はほぼ垂直で、底面は南側に傾斜している。上皿が南側にずれていた状態で検出されている。徳利などは付随してない。

4号遺構(図7)

 本遺構は調査区の東側に位置し、東西方向に主軸を持つ大ごみ穴である。規模は長軸19.5m、短軸5.5m、確認面からの深さは最大で4.7mを測る。遺構は屋敷地の裏手側に位置し、屋敷地のほぼ半分を占める大型遺構である。覆土は55層から構成されており焼土はほとんど入っていない。全体をみると広範囲にわたり堆積しており、掘り返しの跡はほとんど見られない。上層は遺物や生活残滓をほとんど含まない厚い層であるが、中層以下は薄い層が広範囲に堆積している。中間層では上層と比較して遺物・食物残滓の多い層が見受けられる。下層には木質遺物を多く含む層が堆積しているが、底面付近は一転してほとんど遺物を含まない粘土質の層となっている。壁面には顕著な工具痕が見られ、底面と共に調整はされていない。完掘形から見ると複数の遺構が切り合っているが、覆土の堆積状況からは切合いは見られない。また、遺構の上層では5基の礎石が検出されている。

4号遺構の遺物について(表2)

 本遺構から検出された遺物は約400箱におよび、遺跡全体の検出量の約7割が4号遺構からである。4号遺構の陶磁器だけで天箱にして約270箱になり、内訳は磁器:64 陶器128 b (火石)器18 土器63である。また本遺構からは18世紀後葉の陶磁土器の他、木質遺物・石製品・骨角製品が出ているが、特徴的なのは動物遺存体・種子など生活残滓や生産に関係する遺物が多く検出されていることである。本遺構の傾向としては、後述するスッポンのように一定区画にしか見られない遺物群もある。また、被熱した遺物はほとんど検出されていない。

 本遺構では以下のような紀年銘資料が検出されている。

 ・紀年名資料1 瀬戸・美濃系陶器香炉
 「明和四年亥 九月吉日 ■関屋(浅カ)エ門」(1767)
 ・紀年名資料2 瀬戸・美濃系陶器甕
 「辛卯 明和八年正月吉辰日 かうじ町十二丁目 萬屋■兵衛」(1771)

 磁器 磁器は瀬戸・美濃系の製品が入っておらず、肥前系の製品が主体となっている。傾向としては中碗、特に半筒形碗が多数を占めており、以下皿類・鉢類・瓶類と続く。皿類は五寸皿が主体であり大皿は見られない。青磁製品は全体の2割ほどの量を占めバリエーションが多く見受けられる。全体的に揃い関係は少なく、釘書・墨書はほとんど見られない。焼継は確認されておらず、漆継が磁器以外にも多く見られる。また朝妻焼や鍋島焼といった製品が各1点づつ検出されている。

 陶器 陶器も磁器と同じく碗類が中心に皿類や、火入・香炉など鉢類、水注類など多くの器種が検出されている。碗類は中でも京・信楽系の半球碗が最も多い。他に柳茶碗や刷毛目碗、小杉碗などが多く見られる。皿類は瀬戸・美濃系の輪禿皿や型紙摺皿が主体となっている。徳利は多く概算で400個体近くになると予想されている。また比較的甕類多く検出されており、その多くは底部に穿孔がなされている。陶器では揃い関係は少ないが、墨書が施された製品がいくつか見られる。また玉川焼や薩摩焼と思われる製品などが検出されている。

 土器 土器は現在接合作業中のため確かなことは言えないが、全体として、かわらけ小皿、焙烙、火鉢類・焼塩壷が多く見られる。焼塩壷は轆轤で成形された江戸在地系のものが多い。瓦質土器や施釉土器は全体として少なく、1〜2割程度と思われる。墨書は主に、かわらけ小皿で「中・小」などが多い。

  瓦は土嚢袋にして約200強が検出されている。そのほとんどは江戸式の製品で、平瓦・桟瓦の破片である。葵と思われる家紋瓦など検出されている。

 ミニチュア類 陶磁器の量と比較すると少なく天箱にして約1箱である。検出されているものは主に人形・型・箱庭道具などである。裃雛、猫や狐の像などが多く見られる。点数は少ないが泥面子も検出されている。

 金属製品 銅製品は全体で5箱になる。そのうち4号遺構からは2箱が検出されており、煙管類や飾金具類が検出されている。銭貨は古寛永通宝・新寛永通宝・四文銭・鉄銭が検出されている。四文銭の鋳造は明和五年(1768)・鉄銭の鋳造は元文四年(1739)からである。鉄製品全体で11箱になる。そのうち4号遺構からは7箱が検出されている。主に釘類や鎹が主体である。

 骨角製品 全体で1箱となっている。貝杓子が多いが、根付や笄なども検出されている。中でも漆生産に関わる「パレット状の貝殻」は多く検出されている。

 石製品 天箱にして約5箱で、4号遺構からは2箱の検出量である。主に砥石が多く検出されている。材質は泥岩や粘板岩が多く見受けられ、墨書のあるものも数点検出されている。硯は黒色泥岩類が少なく、その大部分は粘板岩類で側面に塗彩されているものである。

 木製品 下駄・曲物類・結物類のほか建築部材と思われるものが合わせて70箱以上検出されており、そのほとんどが4号遺構からである。人形と火打ち金が各1点検出されている。

 漆製品(表3) 挽物類が多く、他に櫛・曲物・折敷なども検出されている。挽物類では緑色のものが若干検出されている。

 生産遺物について
 漆生産関係(表3)
 漆漉紙・漆漉布・漆溜容器(曲物・陶磁器)・パレット貝・刷毛などが検出されている。パレット状の貝殻の多くはハマグリである。

 製鉄関係
 鞴や椀型鉄滓を含む鉄滓類が見られるものの数量的には1箱と少ない。他の製品と混在している可能性があるため、今後増えると予想される。

 骨細工関係
 鹿角とその端材が各数点ずつ検出されている。

 石工関係
 可能性ではあるが石材と思われる流紋状の石と、硯や砥石の製品が検出されている。

 面模
 泥面子の型が数点検出されている。

 動物遺存体について
 哺乳類では、イヌ・キツネ・イノシシ・シカが検出されており、中でもイヌの頭部多く見受けられる。
 魚類では、カツオ・マグロ類・タイ類・メバルカサゴ類などが検出されている。江戸時代に高級とされる魚種の出土がやや少なめである。
 鳥類は橈骨・尺骨・中手骨が多く検出されている。上腕骨及び大腿骨は上の3つの部位に比べて少なめである。
 両生類ではスッポンが検出されている(図9)。本遺跡では約40個体が確認されており、このうち38個体は4号遺構の一地点からまとまって検出されたものである。遺体は主に背甲骨板である。
 貝はアサリ・シジミ・ハマグリ・サルボウ・アカニシ・ボウシュウボラ・カキ類・アワビ類・サザエなど江戸遺跡で良く見られるものが検出されている。4号遺構では大型のものが多く見られる(図10)。陸産貝類はキセルガイ類とオカチョウジガイが多く検出されている。

おわりに

 坂町遺跡の大ごみ穴を理解する上で、大きく3つの問題点があげられる。

  1 ごみ穴がどのような目的で構築されたのか
   規模の大きさ=費やした時間と労力の大きさ
      ↓
   空閑地的な土地利用のしかた→突発的ものではなく、計画的なもの

  2 ごみの供給源
   量から1世帯のごみとは考え難い→複数の世帯から持ち込まれた
   屋号のある釘書の製品・スッポンの一括大量廃棄・動物解体時の廃棄物
    →武家地のごみとして考えにくい

  3 ごみ穴の形成過程
   層位間で接合できなかった事
   広東碗・施釉土器が下層から検出されていない
    →層位間で時期差がある
   陸産貝類の検出→ある程度の開口期間がある

 坂町遺跡は現在整理作業中ということもあり、以上のような問題点を残している。今後はこれらを整理しつつ、陸産貝含む貝類や種子などの大型植物遺存体や魚骨などといったミクロな視点で形成過程を見ていきたい。また三栄町遺跡や内藤町遺跡などのごみ穴とも対比させながら、ごみ処理の実態について追求する事を課題としたい。

 なお、発表にあたり、漆製品につきましては北野信彦先生に、動物遺存体は金子浩昌先生、阿部常樹氏に、文献史料は赤澤春彦氏にご教示を頂きました。図版作成等で越村篤、高田宏昌、大月圭子各氏にご協力頂きました。文末ながらここに感謝申し上げます。

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江戸遺跡研究会第81回例会は、2001年7月19日(木)18:30より江戸東京博物館学習室にて行われ、厚秀雄氏より「千代田区飯田町遺跡の調査」の報告をいただきました。

千代田区飯田町遺跡の発掘調査

厚 秀雄
千代田区教育委員会

はじめに

 飯田町遺跡は、東京都千代田区飯田橋二丁目および三丁目先に所在する。調査地周辺は江戸城外郭門の一つである小石川門枡形の南に隣接し、江戸時代をとおして武家地として利用された地域にあたる(第1図)。

 発掘調査は、平成11年11月から平成12年7月にかけて行われ、現在整理調査を行っている。調査対象面積は、約6,800m2である。

 調査地は、宝永2年(1705)までは播磨姫路藩榊原家上屋敷、以降は幕末に至るまで讃岐高松藩松平家上屋敷と中屋敷などがあった地域に位置する。遺跡は播磨姫路藩や高松藩上屋敷の一部に当たり、他にも御台所頭組屋敷、旗本屋敷、秋田亀田藩岩城伊予守上屋敷などにかかる。

 発掘調査の結果、播磨姫路藩拝領期に埋められた堀跡や、高松藩上屋敷の御殿跡、庭園の池跡などの遺構が発見された。 

 なお、平成4〜5年にかけて本遺跡の西側に隣接する飯田町遺跡(現東京シニアワーク)では、同じ播磨姫路藩および高松藩上屋敷の調査が東京都教育委員会により実施されている。

 今回は、遺跡の大部分を占める播磨姫路藩および讃岐高松藩に関する遺構について報告する。

1.調査地の位置と変遷(第2〜6図)

 調査地点は、武蔵野台地東端の麹町台地と本郷台地に挟まれた低地に位置し、遺跡は神田川下流の平川旧流路付近に位置している。本来の平川は、飯田橋に至る神田川から南下して日比谷入江に注いでいたと考えられている。この平川は、元和6年(1620)に付替え工事が行われ、本郷台を貫いて小石川を合わせてまっすぐ東に向かうように付替えが行われた。1640年代の絵図(第11図)には、堀留から飯田橋付近まで蛇行する水面が描かれており、平川の付替え後直ちに埋立が行われなかった可能性がある。このように調査地は、旧河川の流域を造成して屋敷地とした地域である。

 近世榊原家の初代榊原康政は井伊・本多・酒井の三家とともに徳川四天王に数えられた譜代大名の雄である。榊原家が上屋敷を拝領した年代は判然としないが、8,550坪(約28,215m2)の屋敷を拝領している。讃岐高松藩松平家の初代藩主頼重は、徳川御三家の一つである水戸藩2代藩主徳川光圀の兄にあたり、水戸藩とはゆかりの深い大名家である。高松藩は宝永3年(1706)3代頼豊の時に当該地に上屋敷を拝領し、以後数度の拡張を経て幕末には約11,400坪(約37,600m2)の規模を有した。

2.層序と生活面の認識

 調査地の現地表面の標高は、約4.0mである。現地表面から約1.0m下までは近代以降の盛土であり、それ以下が近世の盛土である。本遺跡において確認された自然堆積層の標高は、約0.4mであり、近世において3m近い盛土が行われている。

 本遺跡で確認された自然堆積層は、暗青灰色の泥炭層であり、当該地が湿潤な環境にあったことを示している。姫路藩拝領期の生活面は、自然堆積層上に約1.0〜2.0mのローム混じりの青灰色粘土を主体とする盛土をした上に築かれる。部分的に焼土に覆われた砂利敷きの面も確認された。この焼土層は、出土遺物の年代などから17世紀中頃の火災によるものと推定される。高松藩拝領期の生活面は、18世紀後葉の火災と推定される焼土層をはさんで前後2時期区分され、前者を松平1期、後者を松平2期とした。松平1期の生活面は、層厚約0.4〜1.0mを測る。黒色土、砂、ロームなどによる盛土である。松平2期の生活面は、18世紀後葉の焼土層上に築かれる。層厚0.4〜0.5mを測り、当該期においてはじめてロームを主体とする盛土が行われる。

3.榊原家拝領期の主な遺構(第7・8図)

 榊原家が屋敷を拝領していた時期の遺構は、屋敷境の下水や礎石などであるが、特筆すべき遺構として遺跡を南北に縦断する堀跡が確認された。

 この堀跡の規模は、南北方向に約54m、幅は約10〜13m、深さは1.0〜1.5mである。北側は、調査区外に延び、南側については今回の調査では確認することができなかった。堀の西岸は板と石積みによる護岸であるが、東岸は板および竹柵による護岸でる。また、堀の南端でも石積みによる護岸が確認され、東西両岸の護岸がそれぞれL字形に折れて東西方向に延びる。堀の南北2カ所には堰が設けられている。南側の堰は石積み護岸の間に設けられており、中央付近に開口部が設けられている。

 この堀跡は、被熱したものを含む大量の瓦が廃棄されており、火災に被災した建物の瓦を利用して埋立てを行ったような状態であった。出土遺物の年代から、この火災は17世紀中頃であると推定される。

 以下では、堀跡の各地点で確認された遺構について説明する。

 北堰:堀北端を横断する形で3列の杭列が並ぶ。各杭列は千鳥に配置されており、その間に板を挟み込んでいる。南側の杭列には約2.0mの間隔で角柱状の太い杭が打ち込まれておりこの杭を支える材を6本かけ、先端を杭で留めている。断面での観察では、杭列の間に6〜7段の土俵が積まれていることが確認された。

 東護岸:東岸の護岸は、北堰から約30mまでは杭と板であり、これより南側では竹柵となる。

 西護岸:西岸の護岸は、北堰から約17mまでは背面の石積みと合わせて2段階の護岸となる。護岸の横板は長さ約2.0〜7.0m、幅約0.3〜0.6m、厚さ約5cmの板を4〜5段接ぎ合わせたもので、この全面に杭を打って支えている。この杭には横木が組み合わされており、上段の横木は紐により杭に固定されている。下段の横木にはホゾ穴が穿たれており、西側から延びる支えの材と接合される。この支えの材を通すために護岸の板には円形の穴が開けられており、材はここを通って西側の石積みの土台下に延びる。横板の裏側からは直径30〜40cm長さ約60cmで、暗灰色粘土や砂が詰められた土俵が6〜7段積まれているのが確認された。

 石積みと横板との間隔は約1.0mであり、横板の下端より約1.5m高い標高約0.9mの地点に位置する。2段が確認されたが、本来は3〜4段程度であったと推定される。石積みの基礎には礫が敷かれ、この上に筏土台が組まれている。石材の規模は面の幅0.5〜0.6m、高さ0.3〜0.6m、控え約0.5〜0.8mを測る。

 南端の石積み:東西両岸の護岸がそれぞれL字形に折れて東西方向に延び、確認できた規模は約39mである。

 南堰:堀の南端を横断する形で杭が並ぶ。北面には矢板が用いられており、堰の中央には幅約90cmの堰口が設けられ、その底面には竹が敷き詰められている。調査の時点では、この堰口は多数の杭と板により閉鎖された状態で確認された。

4.松平家拝領期の主な遺構

松平1期の遺構(第9図)

 部分的な調査であったため、屋敷の全体像を把握し得なかったが、確認された遺構は、礎石、地下室、庭園遺構、下水溝、寛政4年の火災に伴い焼けた瓦を廃棄した土坑などである。

 礎石:礎石には直径約40〜50cmの河原石を用いており、礎石下には砂利を敷き、地盤を叩き締めた上に石据える構造である。

 地下室:遺跡中央の東端で確認された。本遺跡では全時期をとおして11基の地下室が確認されたが、このうち9基がこの地点に集中する。遺構は東西方向に並んで確認され、規模は1間×1間半と1間四方であり、深さは約1間である。地下室の北に隣接して礫群が確認れた。本遺構と関連するものと推定されるが、性格は不明である。

 庭園遺構:遺跡中央の西端で確認された。板による護岸の水路、井戸、池?などにより構成される。水路南端に位置する井戸の側面には穴が穿たれ、ここから水が注ぎ込まれたと考えられる。この水路はS字形に屈曲し、西側の調査区外に延びる。この水路に沿って土台木が残ることから石積みの護岸も有したと推定される。また、東側から延びる下水溝が接続されており、邸内の排水施設としての役割も想定される。水路の北側に位置する池は大部分が調査区外に位置するため判然としないが、内面に漆喰が塗られている。

松平2期の遺構

 当該期の遺構は、18世紀後葉の火災を契機として大規模な盛土を行った上に築かれている。また、盛土と同時に上水施設を配置していることが確認された。遺構の配置は、遺跡の北側に3回程度の造り替えの認められる礎石群や下水溝、上水や井戸、池が集中し、南側は、比較的大規模な礎石を中心とする。

 礎石:掘り方内に直径12〜20cm、長さ1.8〜2.0mの杭を5〜6本打った上に礎石を据え沈下を防ぐ構造となる。柱間は、1間=6尺5寸の京間が用いられている。

 遺跡北側では、ほぼ1間の間隔で礎石が並ぶが、南側では2間間隔で並ぶ礎石や比較的規模の大きな礎石も確認された。

 池跡:池は、御殿から約1m低い見下ろすような位置に作られており、南北と西側に切石護岸、東側に杭や板、竹柵による護岸を有する。池には神田上水を引込んでいる。池の南岸や中島には自然石を置いて景石としている。類似する石が高松の栗林公園にも用いられている。この石は庵治石と称される花崗岩で、香川県の屋島付近を産地とすることから、国元の石を庭園に用いている可能性がある。

 地下室:当該期には9基の地下室が確認されたが、このうち6基が遺跡中央の東端に集中する。出土した地下室のうち4基は内面に漆喰を貼ったものである。ほかにも周囲に礎石を配した地下室や天井部が残る地下室などがある。

 漆喰貼りの地下室は内面に厚さ約18cmの漆喰を貼っている。周囲に礎石を配した地下室は1間半四方で深さ約1、間であり、本遺跡では最大の規模である。室の周囲に筏地形を行い、約半間の間隔で礎石を配置しており、上屋を有したものと推定される。天井の残る地下室の規模は1間×1間半で、深さは1間である。上面の北西隅に一辺約90cmの開口部を有し、室の内部からは梯子やスノコが出土している。

おわりに

 今回の発掘調査は、良好な状態で残る大名屋敷中心部と庭園を同時に調査できた貴重な例であった。残念ながら高松藩、姫路藩ともに屋敷絵図が残されていないため、屋敷内における具体的な空間復原は困難であるが、高松藩上屋敷における18世紀後葉の火災をはさんだ礎石構造の変化は、低地での土木技術の変化を示すとともに、江戸や国元に与えた経済的な影響の大きさを示すものともいえよう。

 また、当該期の遺物に国元で焼かれた理兵衛焼と称される陶器が出土しており、国元から運ばれた可能性のある庭園の石と共に、江戸と国元の関係を直接示す資料でるといえよう。

 また、榊原家拝領期の堀跡は、この遺構が先の正保図に描かれた水面そのものか、それにつながる船入堀のような施設であるか、性格を明らかにするには至らなかったが、少なくとも17世紀中葉頃まで、本遺構のような水に関係する施設が残されていたことが明らかとなったことは、江戸時代初期の遺跡周辺の土地開発や景観復原を行う上で重要な成果であった。

 

 

 

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関連イベント

「在地土器検討会−北武蔵のカワラケ−」のご案内


日時:平成14年1月19日(土)13:00〜、1月20日(日)10:00〜
会場:埼玉県立歴史資料館東武東上線武蔵嵐山駅下車徒歩13分
主催:埼玉県立歴史資料館・中世を歩く会
内容:
19日(土) 開催趣旨説明・展示遺物の概略説明、遺物説明、遺物見学、
資料検討会 I(問題提起)、
20日(日) 資料検討会II (コメント)、資料検討会III (編年案の検討)、総括
コメンテーター :浅野晴樹氏(熊谷市教育委員会) 「在地土器研究の現状から」
荒川正夫氏(早稲田大学) 「中世前期の在地土器」
馬淵和雄氏(鎌倉考古学研究所) 「鎌倉の在地土器との比較」
宮瀧交二氏(さいたま文学館) 「中世の物流からみた在地土器」
資 料 集:「埼玉県内の在地土器と共伴資料」(約400校頁)有償頒布
申し込み:電話で歴史資料館へ0493−62−5652定員80名(先着順)
【編集後記】今回の大会会場は、中央区築地社会教育会館にて行います(別紙参照)。
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