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江戸遺跡研究会会報 No.79

2001年3月15日発行
江戸遺跡研究会
www.ao.jpn.org/edo/

▼第14回大会「食器にみる江戸の食生活」を終えて
「食器にみる江戸の食生活」に参加して
版本の分類整理と今後の課題 −文献・絵画資料の様式型式作成の必要性−
妙法寺祖師堂床下の経塚−経石からみた近世信仰形態−
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第14回大会「食器にみる江戸の食生活」を終えて

本会世話人   
堀内秀樹

 第14回江戸遺跡研究会大会は、1月27・28日の両日に江戸東京博物館会議室で行われた。今年は前日から降った雪のために、関係者や出席者などへの影響も危ぶまれたが、遠方からの出席もいただき無事開催することができた。世話人一同深く感謝する次第である。

 本大会のテーマは、「食器にみる江戸の食生活」とした。「食」に直接関係するテーマ設定は、1988年に行った第1回大会「江戸の食文化」以降、十数年間ぶりのことである。当時は、江戸遺跡が考古学的な調査対象となって時間も浅く、また、遺構、遺物に関連した知識も不十分であり、関連諸分野の先生の話を聞き、勉強するといったことが主であったような記憶がある。しかし、考古学からの発表も限定された資料の中からではあるが、現在でも、議論の俎上にのぼり得る様々な視点、方法からのアプローチがされていた。

 江戸遺跡研究会では、発掘調査資料も増加した現在、「食」に関して今度は考古学を中心に議論してみようということになり、考えられる種々の視点から、比較的多くの研究者が対象としている出土遺物−特に陶磁器・漆器類−を選択した。本大会はそれらの分析から「食」に関する現時点での考古学からの研究方法、到達点、限界性、これからの方向性などを議論することを大会設定の意図とした。

 基調報告は上記意図を報告する形で堀内が行ったが、扱う領域が広範であるため分析方法として次の三点に絞った。

  1. 食器の組成論、分布論的分析 
  2. 食器の機能論的分析 
  3. 考古学と関連諸分野との関わり

 今回は、扱う食器に複雑な様態が予想され、完全に独立した項目立てができないことから、これらを考えるためのワーキンググループを作って、大会に用意した。各人の発表は力作が多く、新しい視点も多く呈示されていたと考えているが、大会最後の総合討論では、時間が足らず、大きな変化がみられる時期と要因、場や使用の問題など「食」に直接関連づけられる意見交換の時間が取れなかったのは極めて残念である。

 第14回大会は終わってしまったが、「食」の問題は広汎で深く、これからも様々な研究が行われると思われる。今大会を契機としてさらに議論が高まるように期待する次第である。


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<参加記>

「食器にみる江戸の食生活」に参加して

赤松和佳
(伊丹郷町調査研究会)

 去る2001年1月27・28日の両日に江戸東京博物館で行われた江戸遺跡研究会の第14回大会に参加した。テーマは「食器にみる江戸の食生活」で、考古資料から食生活を考えるということであった。私自身も、以前伊丹郷町遺跡出土の貝類組成から伊丹郷町内の食生活を考えたことがあり、階層や地域によって差異があることがわかった。私自身、個々の食器がどのように使用されていたのか漠然と考えていたものの、考古資料では復元するのは難しいと思い、絵画資料や文献資料に頼っている。今回、考古資料から、どのような方法で検討されたのか非常に興味を持って参加させていただいた。

 大会についてであるが、各発表とも興味深いものであった。江戸遺跡での地域差や階層差がよく分かったのは、大八木謙司氏が発表された「食生活の道具復元にむけて−新宿区の江戸遺跡を中心に」であった。陶磁器類を細やかに器種分類し、階層別・時期別にみる器種出現頻度の分析では、各階層ごとの器種組成の違いがよく分かった。

 計測方法に関しては、伊藤末子氏の「近世都市江戸における皿の様相−武家地・町屋・料理屋から−」で、皿の内容量を知るために計測する際、器高ではなく深さを採用されていたのは参考になった。個々の用途を知るためには、共通した計測方法ではなく、個々の特徴が分かる計測法をしなければと思っていたので参考になった。また、水本和美氏の「碗の用途―形態・法量から−」では、碗と他の器種の重量を分析され、碗と他の器種との法量比の違いが検討されていたのは興味深かった。

 また、後藤宏樹氏の発表の中で、漆器椀各器種の品質差によるセット関係の話や、成田涼子氏の碗と土瓶・急須の出土割合の検討も大変参考になった。

 この研究会を通して、考古資料から用途を明確に特定する事は難しく、まだまだ検討が必要であるように思った。がしかし、今回の発表成果は、考古資料からの食文化復元の方向性を示唆していると思う。


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<コメント>

版本の分類整理と今後の課題 −文献・絵画資料の様式型式作成の必要性−

村田香澄

はじめに

 今回、松崎亜砂子氏の発表「9.絵画資料にみる江戸の食事と茶」は、本大会のテーマである「食器にみる江戸の食生活」に、「戯作」作品を「絵画資料」の側面から迫ろうとしたものであり、江戸遺跡のみならず江戸時代の考古学の関係分野として、文学作品がかかせない地位をもつものであることを提唱したその成果は、かつて近世国文学を専攻した一個人として、非常に嬉しい限りであった。しかし、同氏の調査方法における「U 使用資料について」ならびに「V 分類と時代区分について」の二点の収集対象とした版本の分類及び画期の設定については、江戸遺跡に於ける文献史料調査担当者の立場としても補わざるを得ない。本稿は、江戸版本に於ける国文学資料研究先駆者諸兄の論文を考古学との共通言語である様式型式論に当てはめて、その論考を試みたものであり、あわせて既研究論文を紹介するに過ぎないものである。しかし、江戸遺跡研究の傍証資料たる煩雑な文献絵画資料の収集整理の一助となるのではないかという思いから、僭越ながら本稿を起こすこととした。以下、参考文献、引用箇所については、本稿末に纏める。

1. 版本の分類

 松崎氏は、使用資料について「すべて版本である」と記している。では、版本にはどのような様式があるのであろうか。以下、本論を進めるにあたり、文学研究の基礎用語として、版本には、大きく二つの分類(1)があることを冒頭に置く。 一つには、書物問屋(あるいは書物屋)が扱った「物之本」と呼ばれる医学書・唐本(中国からの渡来書の翻訳本等)・儒書・古典書(徒然草や源氏物語等の注釈書)・仏書・図鑑類(地図等)・読本類などの本格的知識・実用書。 いま一つには、地本問屋(あるいは地本屋・書肆を含む)の扱った娯楽的読み物である、草双紙・浄瑠璃本・芝居絵尽くし・絵本・一枚絵。 これらに、作者・出版書肆とを結ぶ「貸本屋」が介在しているのが、凡その江戸の版本の位置づけである。

 今回の「文献・絵画資料発表」において松崎氏が分類整理された資料は、「地本問屋」取り扱いの版本資料である。但し、『守貞謾稿』は除外。また、大空社の切り抜き編纂資料については管見からの確認が早急にはできないので除外する。

2. 版本の史実的画期

 まず版本には、いわゆる享保・寛政・天保の江戸三大改革という史実に則った画期がある。この三改革の他にも以下のような出版統制がある(2)。

寛文13年(1673)5月 屋敷売買及出版規定。
元禄4年(1691)10月 荒唐無稽出版者処罰。
元禄7年(1694)正月 卑猥書籍著作出版者処罰。
元禄11年(1698)2月 出板取締町触。
貞享元年(1684)11月 猥ナル俗歌其他板行禁遏。
享保6年(1721)閏7月 出版物取締ノ範囲明示。
享保7年(1722)11月 出版規則制定(3)。
天明7年(1787)11月 不埒書物出版関係者処罰。
寛政2年(1790)5月 出版物取締令・町触。
寛政11年(1799)12月 一枚絵等板行取締。
寛政12年(1800)12月 一枚絵等板行取締。
享和2年(1802)2月 絵草紙読本類取締。
天保13年(1842)6月 出板取締令。
天保15年(1844)正月 出板規定。

 これら幕府による出版統制により、一時的ではあるにしろ、戯作作品(書物草紙類・壱枚絵・好色本之類と称されている)の出版絶対数が減少する。従って、対象資料数の問題からみて明らかな画期である。また、これら史実的画期に災害史を加えることによって、現在に伝承される版本の状況判断が可能となる。近世国文学研究においても、史学研究においても、共通の画期を設定する必要がある。松崎氏の画期設定は、一個人の管見に基づくものであり、対象とする資料が増加した後には、混乱雑多としたもとのなることは歴然としている。安直な分類画期の設定は極力避けるべきであろう。

3. 松崎氏が収集対象とした版本について

 松崎氏が分類整理された資料は、「地本問屋」取り扱いの版本資料であり、小説様式においては、広義に「戯作」と分類される資料である。

(1) 戯作の定義と分類

(1)-1 戯作の様式と画期の設定(4)

戯作を文学史上の小説様式で分類すると、

前期:洒落本・談義本(又は前期滑稽本)・前期読本(短編時代)・黒本・青本・黄表紙
後期:人情本・滑稽本(あるいは後期滑稽本)・後期読本(長編時代)・合巻 である。

 ただし、小説様式では容易に前期後期の画期の設定は難しい(5)。その理由は、作者・書肆・読者の三者の関係が前期と後期で徐々に変化しているとみられることに起因する(6)。

 しかし、小説様式の視点から分類しても、史学的事実に裏打ちされた、明らかな画期として、寛政の改革による出版統制による変化が顕著である。この改革は、武家作家の活躍(7)に対しての取り締まりとして、「書物草紙類・壱枚絵等・好色本之類」禁止令である(『御触書天保集成下6416』)。

 また、小説様式においては、享和2年(1802)の洒落本禁止令、文政3年(1820)の十辺舎一九による「人情本」時代のはじまりという画期を設定できる。

(1)-2 滑稽本という様式について

 滑稽本という様式には、大きく分けて下記の二つの型式が存在する。 一つは、文字主体の作品。例:十辺舎一九『東海道中膝栗毛』享和2年〜(1802〜)、式亭三馬『浮世風呂』(文化6年〜〈1809〜〉)、『浮世床』など。 一つは、挿絵主体の作品。「見立絵本」と分類される毎葉挿絵を有する作品。

(1)-3 滑稽見立の挿絵と原作

 挿絵主体の作品。「見立絵本」と分類される毎葉挿絵を有する作品の例として、『たから合の記』『たなぐい合』『小紋裁』(『小紋雅話』)『新造図彙』『奇妙図彙』(いずれも山東京伝著)などは、原作である開帳・手拭意匠・訓蒙図彙・文字絵を滑稽見立にするという形式を取るものである。戯作作品を扱う場合、念頭におかなければいけないのは戯作作品は、「小説」であり「戯れた作品(パロディー)」ということにある。それらの多くは、主題取りの作品であり、戯作を扱う場合には、常に滑稽見立にされた側の被対象物を念頭に置く必要がある。したがって、戯作の挿絵は、必ずしも実相のままではないことに常に留意する必要があり、それらの傍証資料として「物の本」の類、図鑑・辞書・実用書を用いた確認検証が不可欠であると思われる。また、これら版本の限界を補う意味で、膨大な「随筆」群(8)での検証が必要である。したがって、実体に限りなく近い、あるいは仮に同一であったとしても、考古学的事実に対応する傍証資料としては安直に位置づけられるものではない。

4. 戯作と実用書について

(1)-1 文学様式における挿絵

 戯作の特色として、「絵や題材や人物がいかに歴史的過去の存在であっても、必ずそれを当時の社会風俗のなかにおいて写実的に緻密に描いてみせる」(小池1980-83)(9)というのは、あくまで小説様式からの見解であり、描かれた物に対する分析は進んでいないというのが現状である(10)。そして、「類型と趣向」という非常に細分化できるほどの様式型式での分析が可能だということを考古学に係わる方々は、すぐに理解していただけることと思う。

 そして、実体を伴う考古学の傍証資料として戯作作品を扱うには、上述してきたように、作品毎に綿密な裏付け資料を用いた後でなければ並列した存在とは成り得ない。

(1)-2 料理書の系譜と戯作(11)

 今回の大会題目「食文化」に焦点を当てた場合、当時の料理書、辞書いわゆる「物の本」を傍証資料としての比較検討を抜きにしては、戯作の絵の分類は考古学の傍証資料とは成り得ないのではなかろうか。

 料理書は、中世から近世初頭・中期の大系的な資料として、『料理物語』(臨川書院所収)があり、限定された読者層を意識した出版物であるが、延享4年(1747)『料理歌仙の組系』刊行の頃には遊びの要素を兼ね備えた料理本が多数刊行されるようになるまで、料理の百科辞典的な書である。その後、料理書は、天明2年(1782)の『豆腐百珍』を起点とし、いわゆる「百珍もの」と称される実用書が続々と刊行され、広く汎用性が重視された料理本型式が確立する。

 さらに19世紀に入ると、享和元年(1801)の『料理早指南(りょうりはやしなん)』(12)、享和3年〜文政3年(1803-20)にかけて刊行された『素人包丁』(13)などは、日常生活に即した料理本と戯作的な趣向を兼ね備えた物が出現する。 料理本の画期として、『江戸流行料理通』(通称『八百膳物語』)を設定することも可能であろう。

 「食文化」に焦点をあてて版本資料を収集する場合、画期として、広義天保の改革の中でも、料理屋の隆盛による蔬菜の高騰を取り締まる天保6年(1835)の生産者農村への触書を画期とすることが妥当な設定ではないか(原田1989)。

 爆発的にヒットした料理屋からの料理本(料理レシピ)の公開は、少なからず戯作挿絵にも影響を与えている。それはは、作者・及び画工が戯作と混在(14)していることからみても顕著な事実である。従って、挿絵を収集分類整理する場合には、まず、対象となる作品群を分類整理することが不可欠あり、それを行った後にこそ、挿絵様式における検討が可能となるのではないだろうか(15)。

 「江戸の料理文化が、宝暦〜天明期と化政期とにもっとも華々しかったのは、(中略)三大改革の谷間に位置したためであった。人々の享楽とした料理文化は、そうした政治の谷間にこそ精彩を放つという習性をもつものであった」(原田1989)という説がある。この論は、同氏の詳細なる料理書研究の成果であり、「戯作」の習性も同様の傾向がある。

 版本資料の収集分類整理、様式型式の設定が如何に困難であるかは明白であろう。さらに、あらゆる文字史料・絵画資料の分類においても、まず、史実的画期に基き、その先に作者様式・画工様式諸々の様式を設定せねばならない。また、こうした版本資料の限界を補う資料として、寺島考一氏が本大会の発表多く取り上げられた「随筆」資料による傍証が必要となる。無論、今日的に括られた膨大に残る「随筆」群、活字化されたものだけでもその実体は計り知れないが、既研究の中にも個々に様式型式分類(16)がある。まず、文字絵画資料を考古学の傍証資料として扱うには、時期・地域・著者の分類整理が優先されるべきであると思われる。江戸時代の江戸という都市を探る為には、何よりも、時間軸を設定した上での他学研究分野についても様式型式の構築をしなければ、学際的な江戸遺跡研究は発展をみないであろう。

まとめにかえて

 考古学が持つ、時間軸と様式型式論は、他分野からの参入者にとって非常に合理的かつ論理的である。また、併走している文献史学の時間軸の設定も江戸を探るために必要不可欠な存在である。しかし、江戸の様相を示す資料は、版本・芸術的資料・伝承資料諸々が多岐にわたる。その中で今回、松崎氏が版本の中でも「戯作」を収集分類整理の対象とされた点には敬意を表したい。また、松崎氏の御尽力により、画文一体の戯作作品鑑賞の道が江戸遺跡の研究者にもたらされたのは、非常に意義あることと思う。「厖大な戯作愛好者予備軍団を、捨てておく手はない」(17)が、しかし、戯作作品の多くは、厳密に生活様相を描き出しているのか否かは判然とはしないものであること。また、玩物喪心とならぬように、その傍証をとり、考古学の傍証資料として分類整理するには、非常に時間がかかる。「戯作」は、考古学という実見の学問の併走資料となるには、今一度の検討を要することを研究者諸兄にご理解戴ければと思う。近くて遠い存在なのである。最後に、本稿をまとめるにあたり、咄本・狂歌・川柳・笑本などを本稿の論外においたことをお断りしておく。

2001年麗月末日

【註】

(1)出版(木活)様式において、「製版」と「活字版」。文学的解釈様式において「雅文学」と「俗文学」の分類が可能である。今回、松崎氏の収集資料対象とは少し離れるので、本稿では論外に置く。
(2)高柳真三・石井良助偏『御触書集成』岩波書店、1977。『東京市史稿産業篇』『東京市史稿市街篇』から作成。
(3)享保の改革での、徳川吉宗による出版制度の確立が日本の出版業の夜明けとなり、扱い業者の成立、版本の分類を如実なものとしたともいえる。
(4)棚橋正博「江戸の出版事情」『別冊太陽No.89蔦屋重三郎の仕事』所収 平凡社、1995。
(5)中村幸彦「戯作論」(『中村幸彦著述集 第八巻』中央公論社、1982)文学様式では、前期を弄文、後期を表現の彫琢と分類することもある。
(6)本稿付論参照。
(7)安永年間以後、太田南畝(幕臣)、蓬莱山人帰橋(ほうらいじんききょう)(高崎藩江戸留守居役)、朋誠喜三二(ほうせいどうきさんじ)(秋田佐竹藩江戸留守居役)、戀川春町(こいかわはるまち)(駿河小島藩江戸留守居役)、田にし金魚(医師)、朱楽官江(あけらかんこう)、唐来参和(とうらいさんな)、志水燕十(しみずえんじゅう)等。
(8)現代人が今日分類出版している「随筆」群にも、時間・地点・作者という様式型式の設定が不可欠である。
(9)小池正胤「江戸戯作絵本(一〜四)」・序文 社会思想社、1980-83。
(10)文学様式において、京伝作の『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』主人公仇気(あだき)屋の艶(えん)二郎が誰なのか、その挿し絵の背景にオランダ東インド会社の紋章が見える云々といった論議はかなり密に行われている(中野三敏『江戸文化評判記-雅俗融和の世界』中公新書〔1099〕、1992)。
(11)原田信男「江戸の料理史-料理本と料理文化」中公新書〔929〕、1989。松下幸子著『図説江戸料理辞典』柏書房、1996。
(12)参考資料参照。
(13)第三篇の序文は、滝沢馬琴による。
(14)第壱篇序文、大田南畝。第弐篇挿絵、葛飾北斎・渓齋英泉等。
(15)同様に、版元様式、作者様式諸々の矛盾が究明探査の対象と成り得るようになるのではないか。
(16)尾張藩士の日記である『鸚鵡楼中記』をはじめ、「江戸時代を語る食文化」資料とは成り得ても、「江戸という都市」の食文化の傍証資料とは成り得ないのではないか。論点を江戸時代としているのか。江戸という都市にしているのか寺島氏の発表は拝聴する毎に惑わされたように感じる以前に寺島氏は、『小梅日記』から下肥掃除の一文を引用発表なされたが、日記筆者の小梅という女性が、一度も江戸の地に足を踏み入れることなく生涯を終えたことを論の外におかれている。その場合、江戸時代の日記であっても、江戸という地点を記した日記ではないことをせめて明示する必要があると考える。
(17)延広真治「シリーズ江戸戯作について」(『唐来三和-シリーズ江戸戯作-』おうふう、1988

【参考資料について】

 正保4年(1647)寺島良安『和漢三才図会』と元禄9年(1696)の『茶湯献立指南』(参1)を比較すると、その挿絵の構図、表現方法が意識的に模倣されていることが顕著なものであることに気付くであろう。また、『和漢三才図会』は、嘉永4年(1851)に編纂された『守貞謾稿』の出典の一つでもある。参考資料の出典は、寺島良安『和漢三才図会』(東京美術1996)。また、現代語訳が、平凡社・東洋文庫から上梓されている。今回、稚拙ながら、本大会要旨に見合う箇所を箇条書きにまとめておく。

○茶盂(以下、茶碗)
△思うに、茶碗は高麗窯を上品とする。
1.三島手と称するもの:竪に細い絵文を幽かで三島暦に似ているため、こう名付ている。始めて渡来して四百年余になる。
2.井戸茶碗:形は様々で、大抵細かい裂文(俗に、華幽という)がある。始めて渡来して三百年余になる。類似の亜流のものを「井戸脇」という。
3.渡唐屋というものがある。
4.熊川:朝鮮咸鏡道の地名から名付けられた茶碗で、大抵、高台の裏には薬が染まっていない。図示したものは、はた反の形のものである。割高台は、井戸と同時代のもので、希にみることが出来る。貴重品である。
5.棘肬・絵高麗・雲鶴・刷毛目・金海・御本・判事など数々の品があり、数えあげれば切りがない。
6.伯庵:井戸に劣らないものである。
7.その他:長二郎の楽焼・大坂の高原焼などは、高麗に次ほどのものである。
8.その他:長門の萩、肥前の唐津、尾州の瀬戸、京都の黒谷・清水・御室の茶碗は天目が大変多く、いずれも薄茶や煎茶はこれで飲む。

○絵茶碗
1.南京の染付茶碗:浄白で土層がたいへん濃密。そこに藍色の染付が鮮明。絵は多くは人形・花鳥である。近年赤絵の金蘭手が作られているが大変華美なものである。
2.肥前伊万里窯:南京に劣らない。加喜右衛門という人物の細工が有名。
3.南京・伊万里の白磁:澄んだ茶の色によく合う。濃茶にはよくない。煎茶を酌むのに良い。

○椀(前略)
1.後柏原帝の時の和州城主筒井順慶は好巧家であったので、この時になって椀・食床(折敷)の器具が兼ね備わるようになった。
2.生産地:江州・日野、紀州・根来、奥州・会津、摂州・大坂・堺、京師など。
3.根来椀が最上。今は絶えて作らなくなり、京・大坂の椀を上としている。
4.椀の木地:上を欅(石見・伊予・土佐産)、中を栩(紀州熊野産)、下をブナ(諸処で多く産)。
5.椀の形:宗和椀、遠江椀、唐椀、丸椀、杉形椀、はた反椀などの数種がある。
6.椀の種類:飯椀、しる椀、中椀(一名、蓋盞)、四つ目(一名、蓋盞)、平盤、壺盤、畳子、楪子、豆子。(後略)

○皿(前略)
俗に皿の字を用いる。盤盂の一種である。小さい盤を皿。深い盤を鉢といい、浅い盤を浅鉢という。いずれも磁器である。
1.平盤、壺皿:近世になって作られるようになったもので木わんの一種。いずれも蓋がある。
2.畳子:近頃一般に木盤という。一名、腰高というのがこれにあたるだろう。

○楪子(前略)
1.楪子:浅い盤で高台がついている。
2.豆子:壺盤の小さいもの。
3.楪子、豆子:この漆器は、僧家で多く用いられ、調菜を盛る。  

【註】

(参1) 遠藤元閑『茶湯献立指南』翻刻は、『翻刻江戸時代料理本集成』三巻 臨川書店にある。享和元年(1801)『料理早指南』(大会要旨97・264頁)の系譜に位置付けられる。

(付論)小説様式にみる黄表紙作品画期の様相
−「椀飯」と「金々」という語彙を中心に−

 今回の発表で松崎氏は、「往来物には差異はみられない」と明記されているが、その発言には、真っ向から異論を唱えざるを得ない。一例として「椀飯(おうはん)」という語彙を挙げる。「椀飯ふるまい」、今日言うところの「おおばん ぶるまい(おう・わん、ぶるまい)」(付1)の語源の一つとなる語彙である。『日本国語大辞典』(小学館2001)によれば、王朝時代から公家に振る舞われた食事。江戸時代には、正月に親類縁者へ饗する食事とある。「晴の食」とある。いわゆる「往来物」(付2)には、幕末まで散見可能な語彙である。「往来物」は年代・地域・対象読者諸々について、非常に差異がみられる資料であること、また、戯作作品の傍示資料の一つとして不可欠な存在であることを明記しておく(付3)。

 また、松崎氏により、寛政6年(1794)刊行された山東京伝の『栄花夢後日話金々先生造化夢』(以下、京伝の作)が紹介されたので(大会要旨、200・201頁)、寛政の改革が「戯作」に多大な影響をもたらしたことの一例として、「金々先生」に纏わる、戯作解釈のについて、ここに掻い摘んでまとめておく。

 「戯作」様式の中から、敢えて「黄表紙」型式を取り上げたのは、「黄表紙」型式は上方版が刊行されなかったことによる。比するところの「洒落本」は、江戸・京坂両版があり、従って前者は、江戸という地域固有の出版文化とみなされることにある(付4)。また、黄表紙様式の作品は、絵と地文と書入れ(登場人物などの話言葉)が三位一体をなしており、絵は、絵として鑑賞するだけでなく、地の文や書入れと共に読み解く必要がある。そして、何よりも、黄表紙の絵が、意地の悪い戯作的な面白さの効果を狙ったものであることに気付かねばならない(中村1975)。

 黄表紙の開祖とされる、安永4年(1775)に刊行された戀川春町の『金々先生栄花夢』(以下、春町の作)の流行に端を発する。今回、松崎氏が収集された資料は、春町の作をうけて、寛政2年(1790)の改革の後の寛政6年(1794)、町人作家山東京伝の『栄花夢後日話金々先生造化夢』である(付4)。

 この二作品の構成様式は、謡曲『邯鄲』を主題取りとしていることにある。

 『邯鄲』は、中国の李泌の『枕中記』に基づく謡曲で、粟飯(あはいひ)が炊けるまでの仮寝の夢に見たことを人生の栄華盛衰の儚さと感じるという作品である。主題は、昼寝の間に人間の一生分の栄華盛衰を感じたということにある(付5)。

 二作品を読見比べて戴ければ、寛政の改革以前と以後での内容の差は非常に顕著なものであることがわかる。何故、「「粟飯」が湯漬飯」と転じたのであろうか。

 さらに、「米食」について、戯作や短型詩文学(古川柳や狂句)を紐解かれる折に、「菩薩」や「佐太郎」の語彙にも少しの注意を払って戴きたい。いずれも、米飯の異称として江戸時代の語彙に現れるものである。「菩薩」の語彙は、 慶長8年(1603)刊行の日葡辞書(付6)にはないが、戯作草創期の西鶴『俗つれづれ』には米の異称として成立し、「菩薩」と書いて、「米飯」を指すことは、幕末まで継続していることが確認できることであろう。

 また、「冷飯」を「佐太郎」と異称することは、古川柳の中でも「後期誹風柳多留」の時期、文政年間に入ってはじめて確認できる語彙である。私事、現在確認の範疇外にあるが、これは「紀州家」の故事「泉州の豪族佐太郎が紀州候の宿泊時に冷飯を饗して飯野の姓を許された」いう逸話を踏まえたものである。こうした語彙も、「戯作」作品の流行に追従するという現象があり、逐一抽出せねば「食文化」の実体は検討できないであろう。いずれにしても、史実的実証・論拠と成り得る実証見聞、傍証資料の調査が不可欠である。

 ちなみに、米の異称について、Sという女流漫画家が、公共放送の場で「銀シャリ」を江戸時代に遡る語彙であると、公言されたことがありましたが、真っ赤な嘘であることを明言しておく。併せて、“困った時の『守貞謾稿』”、“江戸学の神様、三田村鳶魚”の発想から歩を進め、資料と出土遺物に基づく、より確かな歴史的な変遷を検証・確認していくことこそが必要なのではなかろうか。

【註】

(付1) 文政年間刊行の、『俚言集覧』では『下学集』、『貞丈雑記』等を引いて、土偏に「宛」と書く「わう」(「碗」に通じる)、土偏に「完」と書く「わう」は誤りで、「椀飯」が正しいとしている。但し、現代の『漢和大辞典』の「椀」の音読に、「おう・わう」はない。
(付2) 『庭訓往来』「新日本文学大系」岩波書店、1998。『往来物大系』全100巻、大空社。戯作作品の中にも。野鄙な教訓文学「往来物」が存在する。
(付3) 森銑三「黄表紙謾言」中村幸彦他編『鑑賞 日本古典文学』角川書店、1978。『森銑三著作集』中央公論社、1971他。
(付4) 「金々」の語彙の出現は、安永2年(1773)の洒落本『当世きどり草』、その後幕末まで散見される語彙であり、意味は、「当世風の(流行の)」、「金ぴかの」という意味で使われている(『江戸語の辞典』講談社学術文庫、1991)。この語彙が広く用語として用いられるようになったのは、春町の作以後であることは、顕著な事実である。
(付5) この作をうけて、「邯鄲の枕」を主題とした戯作作品は多い。
(付6) 慶長8年(1603)イエズス会刊行(『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980)。

【参考文献】


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◇江戸遺跡研究会第78回例会は、2000年11月22日(水)午後6時30分より江戸東京博物館学習室にて行われ、有富由紀子氏より、以下の内容が報告されました。

妙法寺祖師堂床下の経塚−経石からみた近世信仰形態−  


有富由紀子 (東京女子大学)

1.はじめに

正式名称:日円山妙法寺

所在地:杉並区堀ノ内3丁目48番

歴史:元和3(1617)年、真言宗の寺院として創立。元和年間に日蓮宗に改宗し、目黒区碑文谷にあった法華寺の末寺となる。しかし、法華寺が日蓮宗の不授布施事件により天台宗に改宗させられたため(現在の円融寺)、同寺にあった日蓮像を移し、改めて身延山久遠寺の末寺となった。(元禄11(1698)年)この日蓮像が、伊豆流罪を免れた42歳の日蓮が自ら開眼したという伝承をもつものであったため、「厄除祖師」として特に信仰された((1)(2)(3))。
1996年6月の調査概要:祖師堂修理工事の際に同堂床下より大量の小石−一字一石経−が発見されたことによる緊急発掘調査。
一字一石経の積まれていた場所の下より多字一石経出土((4)(5))。
多字経石は、祖師堂須弥壇の祖師像真下にあたる位置、地表面から19cmの所に直径52cm、深さ21cmのすり鉢形の穴を掘り、そこに4段、円形に並べて埋納。  

 

2経石について

(1)経石の点数とその内訳

多字一石経計136(経文131、経文+特殊事項2、特殊事項3)
一字一石経計48241(片面一字 40632、両面無字 7436 、特殊なもの 173)
破損計12295 (有字―文字の残りが3分の2以上 4505
文字の残りが3分の1以下 2010
無字―5780)
小破片計5768(有字―2003、無字―3765)

(2)多字一石経((6))

形態・・・大きさも形も様々な河原石 (大・・縦12.5cm、横8.5cm 小・・縦3.7cm、横2.7cm)

 

経典書写石

 書写経典・・『妙法蓮華経』(以下、法華経と略す)

  8巻28品の内、序品第一、方便品第二(以上巻一)、見宝塔品第十一(巻四)
   提婆達多品第十二、勧持品第十三、安楽行品第十四、従地涌出品第十五(以上巻五)、如来寿量品第十六(巻七)

特殊事項石((8))

(3)一字一石経((7))

形態・・・偏平な楕円の河原石。 (大・・縦4cm、横3cm。小・・縦1.9cm、横1.5cm)
 ・数人の筆跡。なかに多字一石経と同じ筆跡が認められる。  

 片面一字・・完形のもの40632点、破損のものでも文字の残りが3分の2以上のものは4505点で、計45137点。本経石の圧倒的多数を占め、本経石が片面一字を基本としていたことが窺われる。文字は楷書。

 両面無字・・7436+α。(全体の15%未満)

 特殊事項・・本経石全体からみれば微々たる数で、例外的。くずし文字の使用。 どちらか一面に特殊事項があろうとも、片面は一寺あるいは無字。  

経典書写石
  書写経典は法華経か。( 他地域の例。使用文字。多字一石経。日蓮宗寺院。)
   片面一字+両面無字+特殊事項石+破損個体(α) =52746+α
   法華経・・69384字(文政10(1827)年妙法寺六万部供養文「読誦法華経一部功徳、即供養六万九千三百八十余仏也」)  

特殊事項石((9))
   戒名、院号、法名+位号、僧侶・出家者、氏姓・俗名
   干支・日付、年齢、願文・供養文、題目
   表裏一字ずつ(両面完全な文字・裏面が不完全な文字)
   書いたものを墨で消した痕のあるもの、その他

二形態の経石の関係

経塚・・「経典をある種の祈念をこめて埋めたところ」(a:土壙直接埋納、b:納甕埋納、c:横穴・洞穴利用、d:寺社堂宇床下型、e:寺社境内一隅に埋納など)
  ・各種願文のみられる本経石群は経塚の範疇に入り、二種の経石は形態こそ違うが、d型の経塚造営に際して作成されたのではないか。  

3.経塚造営の時期

・堂宇床下型の本経石は、祖師堂との密接な関係、造営の計画性が窺われる。

・寛政12年前後の妙法寺祖師堂→「祖師堂建替修復訳ケ書」((11))
   明和6(1769)年焼失。一旦は建て替えられるが、後に大破。
   寛政12(1800)年に建て替え・修復願い提出され、文化9(1811)年完成。
   本経石の書写時期は丁度祖師堂再建の時期にあたる。

 埋納時期・・旧祖師堂が取り壊された後、床が張られる前。  
 他の寺社床下埋納型の経塚にみる埋納目的。((15))→地鎮(鎮壇)
   須弥壇・本尊直下・・宮城県長承寺、埼玉県宝蔵寺、光福寺、福井県飯盛寺
    埼玉県宝蔵寺経塚 
     「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」
     「書写大/乗妙典一字一石而以埋堂床下伏望/以此功徳山門繁盛起居多福/也」                         

 多字経石・・土壙埋納型であるため、地鎮祭にともなって納められたか。 文化7年8月20日直前あたりの吉日。

 一石経・・・地業終了後でなければならない。 文化7年11月25日の地形成就の日か、あるいは文化8年4月3日の村方檀家多数参加の柱建の時か。  

 書写時期・・祖師堂建立に伴うものだとすれば、建立が許可された寛政12年12月以降。多字一石経書写日である4月30日とは、享和元(1801)年の4月30日から、埋納直前の文化7(1809)年4月30日にあたる。  

4.経塚造営の意義

願文にみる書写目的
   現世利益「家内祈祷」「逸病祈祷」「息才延命」「省鬼」
     ・妙法寺の祈祷寺としての性格を反映
   追善供養「先祖代々」「精霊」「両親菩提」「□□忌」「当世/ 菩提」
     ・「家」が確率された近世社会では祖先の存在がより強く意識される。
      祖先崇拝は「家」の永続性への願望の表れ
       cf, 祖師堂奉納物銘「先祖代々/ 子孫繁栄」((10))
     ・追善供養は故人のためのみならず、孝養者自身にも及ぶ(日蓮宗教義)
                ↓
         近世都市社会の信仰形態を如実に表す  

多数参加の背景
   勧化・施入(KL)
    本堂再建に際しての勧化帳(安政4年)によると、寺院は施入を募るとともに施入した人々の「諸願円満、子孫繁昌、現世安穏、後生善処」を祈る。
    祖師堂再建・再々建に際しても、施入を求めている。
    施入金額により、施主が具体的に得る利益が決められる。
                ↓
     ・銘に施主、願文を記し、祖師堂再建に際して奉納と明記している 同堂高欄の擬宝珠などは、施入のひとつの表れ(I)。
     ・施入することで、施主本人の氏名や願文を、信仰する寺院に具体的な形で残せるととは、信者にとっては名誉であり、願望成就を確信する手だてとなったのではないか。  

    上棟に際しての寄進(文化8年6月23日付の祖師堂の棟札M)
      地鎮・鎮壇の儀に際しての寄進、施入もあったのではないか。  

 一石経の経塚は中世的多数作善信仰の反映したもの。
 多数作善による大きな功徳
   一般民衆(信者)・・現世利益という無上の願い実現への期待(理想的利)
             心の癒し(現実的利)
   寺院・・・・・・・・寺院の一層の繁栄を期待(理想的利)
             寺院建立にかかる様々な負担軽減(現実的利)  

5.おわりに

 

【参考文献】


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最近の文献

単行本・図録

○(財)大阪府文化財調査研究センター2001.1『発掘速報展 大阪2001』
○中近東文化センター2000.10『トルコの陶器とタイル』  

発表要旨

○関西近世考古学研究会2000.12『第12回関西近世考古学研究会大会 近世の実年代 資料』
内容:長浜町遺跡(丸山雄二)、大坂(佐藤隆)、堺(永井正浩)、枚方宿(下村節子)、伊丹郷町(赤松和佳・渡辺晴香)、京都(能芝勉)、江戸(成瀬晃司)、丹波擂鉢編年(長谷川真)  

○九州近世陶磁学会2001.2『第11回九州近世陶磁学会 国内出土の肥前陶磁−東日本 流通をさぐる−』
内容:肥前陶磁の流通(東日本)(大橋康二)、北海道・東北地方出土の肥前陶磁(大橋康二)、関東地方(1)−江戸遺跡出土の肥前陶磁−(堀内秀樹)、関東地方(2)群馬・栃木・茨城(酒井隆・大西雅広)、関東地方(3)南関東出土の肥前陶磁−東京都多摩・島嶼地域、埼玉県、神奈川県、千葉県から−(梶原勝)、甲信地方における肥前陶磁の出土状況について(降矢哲男)、北陸地方(1)(富山・新潟)(安藤正美)、北陸地方(2)肥前陶磁器の動向(石川・福井)(藤田邦雄)、肥前陶磁の流通−東海地方を中心として−(仲野泰裕)  

論文・資料紹介など

○山口剛志2000.11「中・近世における遺構間接合資料の検討−小田原城下・欄干橋 町遺跡第W地点の事例から−」『竹石健二先生・澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○小林照教2000.11「武蔵国岩槻城跡の遺構とその年代について」『竹石健二先生・ 澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○小池 聡2000.11「石臼は何故壊れるか−神奈川県下近世遺跡出土石臼からの考察 −」『竹石健二先生・澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○成瀬晃司2000.11「加賀藩本郷邸内『黒多門邸』出土陶磁器の様相」『竹石健二先 生・澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○堀内秀樹2000.11「江戸遺跡出土陶磁器の段階設定とその画期」『竹石健二先生・ 澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○野中和夫2000.11「豆州、大名丁場に関する研究序説−伊東市域・東伊豆町域の石 丁場群より−」『竹石健二先生・澤田大多郎先生還暦記念論文集』
○小林 克2000.11「ボウズの用途」『竹石健二先生・澤田大多郎先生還暦記念論文 集』
○仁木宏2000.12「寺内町研究の成果と課題」『関西近世考古学研究』?
○前川浩一2000.12「考古学から見た「寺内」」『関西近世考古学研究』?
○百瀬正恒2000.12「山科本願寺の占地と構造」『関西近世考古学研究』?
○竹田正敬2000.12「今井・寺内町」『関西近世考古学研究』?
○上野裕子2000.12「貝塚寺内町遺跡」『関西近世考古学研究』?
○岡田清一2000.12「九宝寺寺内町遺跡の調査」『関西近世考古学研究』?
○中辻 亘2000.12「冨田林寺内町遺跡」『関西近世考古学研究』?
○金井 年2000.12「歴史地理学からの寺内町論」『関西近世考古学研究』?
○長谷川眞2000.12「近世丹波系擂鉢の変遷とその系譜関係」『関西近世考古学研究』 ? ○村井毅史2000.12「河内高屋城の復元的考察」『関西近世考古学研究』?  

報告書

○都内遺跡調査会2000.3『小石川牛天神下−都立文京盲学校地点における発掘調査報告書−』
○東京都埋蔵文化財センター2000.3『汐留遺跡U−旧汐留貨物駅跡地内の調査−』
○東京都埋蔵文化財センター2000.8『尾張藩上屋敷跡遺跡X』
○板橋山之上遺跡調査会2000.12『板橋山之上遺跡発掘調査報告書』


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第79回例会のご案内

日 時:2001年3月21日(水)18:30〜 <発表者:佐々木 彰氏(足立区教委区委員会)
内 容:「千住宿問屋場・貫目改所跡の調査(仮題)」 
会 場:江戸東京博物館 第2学習室
交 通:JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分  
問合せ:江戸東京博物館
     03-3626-9916(小林・松崎)
    東京大学埋蔵文化財調査室
     03-5452-5103 (寺島・堀内・成瀬)
    江戸遺跡研究会公式サイト
     http://ao.jpn.org/edo/


【編集後記】第79号をお届けします。


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