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江戸遺跡研究会会報 No.75

2000年5月1日発行
江戸遺跡研究会
www.ao.jpn.org/edo/

▼第74回例会の報告
連載:どんぶり問題・わり箸思案 (1)
新世話人のお知らせ
関連イベント案内
第75回例会のご案内



■江戸遺跡研究会第74回例会は、2000年3月15日(水)午後6時30分より江戸東京博物館学習室にて行われ、原 祐一氏より、以下の内容が報告されました。

近世の真鍮製造と亜鉛輸入
−東京大学本郷構内遺跡出土キセルの材質分析から−

原 祐一 小泉好延 伊藤博之
東京大学埋蔵文化財調査室 東京大学アイソトープ総合センター 和光金属技術研究所

1.近世の金属遺物研究の現状

 古代の金属遺物とくに青銅製品については考古学、保存修復科学の分野で産地同定、製作技術等の問題が議論されている。一方、近世の発掘調査報告書をみると一部を除いて金属遺物の材質は肉眼観察による区別が行われ、青銅をはじめとする銅合金は「銅」と記載されている。田沼時代に鋳造された寛永通宝真鍮四文銭でさえ「銅」製である。また、保存修復科学の近世金属遺物の材質分析報告からは古代の金属遺物を取り扱うような情熱は感じられない。記載のほとんどが「銅」ということは、近世において青銅技術をはじめとする冶金技術は失われてしまったのであろうか。近世における金属精錬、非鉄金属の輸入は文献史・技術史にとって重要な問題である。出土遺物は当時の技術・材料で製造された製品であり、近世考古学における金属遺物研究は技術史にとって重要な意味を持つ。遺物の材質を「銅」で片付けるようでは考古学からも他の学問分野からも近世考古学は学問として認められることはないだろう。

2.日本における真鍮製造

 真鍮は銅と亜鉛からなる合金である。中国では古くから真鍮が珍重され「鍮石」と呼ばれた。明代の技術書に亜鉛精錬と真鍮製造方法の記録があり真鍮貨幣が盛んに鋳造された。正倉院御物の中に鍮石製品があり奈良時代中国から輸入されたことが知られる。真鍮は現在5円貨幣や装飾品等の材料で現代の生活に欠かせない金属である。しかし、日本における真鍮製造の開始についての記録は見出せない。真鍮製造に不可欠な亜鉛精錬が行われるのは明治20年代以降で、江戸時代亜鉛を海外から輸入していた。亜鉛がいつから輸入され、いつから真鍮材が製造されたか否かは、近世技術史、海外貿易史にとって重要な問題である。近世の真鍮製品として最もポピュラーなキセルの材質分析を行った。東京大学本郷構内から出土したキセルの材質は、大部分が銅−亜鉛合金(真鍮)で、鍛造板材を延ばしや絞りと溶接加工を行い製作したものであった。溶接材は定性分析と顕微鏡による金属組織の観察結果から、銅、亜鉛、錫を含有する真鍮鑞であることが明らかとなった。真鍮製造に不可欠な中国・オランダの亜鉛の輸入記録、真鍮輸入の有無、真鍮の国内製造に関する記録の検討を行った。

3.キセルが出土した東京大学本郷構内遺跡病棟建設地点SK03遺構

 病棟地点は、当初、加賀藩下屋敷であったが、1682年(天和2)12月28日の‘八百屋お七の火事’により、加賀藩邸・大聖寺藩邸・富山藩邸が全焼した翌年、大聖寺藩邸となった。SK03遺構は大聖寺藩邸の東側に位置し、東西約20m、南北約50m、深さ5mと規模の大きい遺構である。この遺構からは、火傷を受けた陶磁器片や鉋屑などとともに、刻印のある真鍮製分銅と焼塩壷が出土した。1682年「天下一」銘の使用が禁止されたが、分銅には「正得」と「天下一」の刻印があり、1669年(寛文10)〜1682年の間にこの分銅が製造されたことは明らかである。焼塩壺は「天下一・・・」の刻印があり、禁止令が出された以前に製造されたものである。さらに、加賀藩下屋敷から大聖寺藩邸への屋敷割り改変に伴う遺構調査からも、この遺構は天和2(1682)年の火災に伴い掘削された遺構である。したがって、SK03遺構は1683年頃の遺構で、出土したキセルは1683年頃以前に製作されたものである。

・キセルの出土状況と形態分類

 キセルの分類、出土点数を図1、表1・2に示した。病棟地点SK03遺構から雁首 I・II 類、吸口 I・II 類は出土したが、雁首III類は出土していない。御殿下地点の19世紀代の遺構からは雁首III類が出土した。

4.キセルの材質分析

・キセル試料

 金属遺物は発掘出土遺物であるから埋蔵環境による腐食が生じる。近世の金属遺物でも腐食で金属組織が喪失し、製作時の材質を保持していない場合がある。組織が存在しても表面部が錆で覆われているため、表面の緑色錆とその下に存在する茶褐色の銅酸化物を除去した後に分析を行わなければならない。分析試料は錆を除去し顕微鏡下で金属組織を確認した後に分析資料とした。材質分析は病棟地点SK03遺構から出土した139点の中から73点、御殿下地点から出土した遺構年代年代の明確な4点について行った。

・分析方法

 分析はAm-241(60keV)γ線を用いた蛍光X線分析である。溶接部と一部の試料は、加速器によるPIXE分析(荷電粒子励起X線分析、Particle InducedX- ray Emission)を行った。分析する表面部分 10mm×10mmを研磨し、金属組織を確認して分析した。PIXE分析の試料は、溶接部位から5mm×5mmサイズで採取し、表面研磨、洗浄した。標準試料は製作した銅−亜鉛合金、銅−錫・鉛合金、貨幣、試薬調合試料などを用いた。

・分析結果と製作技法

 分析結果を図2〜4に示す。キセルの材質は銅のみの1試料を除いて、銅−亜鉛合金(真鍮)である。亜鉛−10〜30wt%、銅−90〜70wt%の濃度範囲となった。御殿下地点の腐食が著しいキセル150点の分析結果では、亜鉛濃度が2〜15wt%の値となった。この合金は亜鉛量が35%までは、亜鉛が銅に固容しα相単体の合金である。延展性が良く、冷間鍛造に適している。鍛造を繰り返し、硬化が生じたら加熱、焼き鈍し、冷却鍛造を繰り返すことができる。亜鉛量が35%を越えると、β相が析出し二相合金となり、延展性が悪くなる。写真1.にキセル雁首部の断面を示す。たたき、延ばし、絞りによって肉厚が変化しているのが解る。溶接は火皿部はパイプ部に認められた。鑞付け部からは銅、亜鉛、錫が検出されたことから、鑞材は真鍮鑞である。

5.亜鉛の輸入と真鍮の国内記録

 キセル材料の真鍮は銅−亜鉛合金でありその製造には亜鉛入手が不可欠である。この時代日本国内では亜鉛の精練が行われていない。したがって、真鍮板材は、亜鉛を海外から輸入し国内で製造を行ったか、真鍮板材を輸入したかのどちらかである。1600年代の海外の交易記録と国内の真鍮製造に関係する検討を行った結果、亜鉛輸入と真鍮製造記録を確認した。平戸オランダ商館1636年度『仕訳帳』によれば、12月5日、オランダ商館から、堺コニシシンベエへ売り渡した品名と数量、価格の記載に「aen Spiaulter voor 1065:cattij a T16:6:6 T.picol T 177.4.2」とある(史料1)。「Spiaulter」の日本語訳には「亜鉛」「白鑞」の解釈が存在するが、本文では日蘭学会イザベラ・ファンダーレン氏に教授いただいた「Spiaulter」の解釈、「Spiaulter」の年別輸入量、オランダ語辞書の解釈、「亜鉛」「白鑞」の用途から「Spiaulter」を「亜鉛」と解釈し、オランダ船が亜鉛を輸入したと解釈した。唐船の輸出入記録をオランダ文書から復元した『唐船輸出入品数量一覧 1637〜1833年』に1641年、安海船、福州船などによって(図7)、37,500斤と大量の亜鉛が輸入された。図5・6に1636〜1833年までの輸入量を示した。一方、この年代では、真鍮の輸入記録、国内製造に関する具体的な文書も見出せなかったが、正徳年間(1711〜1716)の大坂の問屋数・職人数をまとめた「奉行引継 正徳年間大坂市中各種営業表」「職工之部」に「真鍮吹屋 四人」、同時代の「大阪商家数」資料に「真鍮吹屋 四軒」と、真鍮製造所に関係した記載がある。これらの亜鉛輸入と真鍮吹屋の記録により、1600年代の比較的早い時期、亜鉛が中国船、オランダ船などによって輸入され、日本国内で真鍮製造が行われていたことは間違いない。

まとめ

 本研究ではキセルの形態が明らかな3分類についての材質分析を行った。材質分析によれば、銅製のキセルは1例しか存在せず、大部分は亜鉛濃度が15〜25wt%の真鍮製キセルであった。埋蔵資料という性質から腐食による亜鉛の減少が避けられず、10wt%前後の濃度を示した試料は、製作時よりやや濃度が低下していると思われる。形態分類と材質の関係は、分類T類の多くが亜鉛濃度10〜20wt%の範囲にあり、亜鉛量が低い真鍮材の傾向も伺えるが、25wt%の例もあり、形態分類と亜鉛濃度の関連は確定できない。真鍮製造は、明代の記録からも中国で行われていたことが明らかである。ヨーロッパでは、1702年にイギリスに真鍮器会社が設立され、1775年以降には、圧延による真鍮線と板材が製造されている。日本における真鍮製造の記録は前述した「真鍮吹屋」以外には見出すことができなかったが、薬と合金材料以外には用途がない亜鉛が1636年に大量に輸入されていることから、1600年代から真鍮が製造されていたことは間違いない。

謝辞:東京大学原子力研究総合センターの小林紘一氏、中野忠一朗氏、東京大学史料編纂所の宮崎勝美氏、松井洋子氏、松方冬子氏、東京大学埋蔵文化財調査室病棟班の方々に感謝いたします。

 江戸遺跡研究会例会で東京都の古泉弘氏から報告書の金属遺物の材質をどのように記載していったら良いかとの質問を受けた。実際分析してみなければ材質はわからないが、このような議論がされることは今後の近世考古学にとって重要である。現在、キセル以外の金属遺物の材質および歴史的背景に関する共同研究を進め成果を公表する予定である。研究成果の公表は国立大学研究者の義務であり、今後、議論のきっかけとなれば幸いである。

【参考文献】

 

連載 どんぶり問題・わり箸思案 (1)

寺島孝一
江戸遺跡研究会世話人

 どんぶり(前だれの金入れなどもどんぶりと呼ばれたが、ここでは陶器をさす)という名が出てくるのは、江戸時代も後半になってからのようであるが、どうも今の私たちの連想する器とは、やや異なったものであったらしいし、深手で大型の鉢全てをどんぶりと呼んだような形跡もある。そこで、江戸の随筆を読んでいて、たまたま気がついた用語の使用例を紹介してみたい。

 もちろん、私が読めるのは活字になったものだけで、また同じ随筆であっても種々の本に収録されているものもあるようだ。引用した刊本は、私が(でも)入手できたものであるから、どこでも簡単にあたることができよう。

 今回はどんぶりについての文献を紹介するが、引きつづき、さまざまな分野で気がついた文献を紹介してゆきたい。また、これ以外にもお気づきの史料が多々あるだろうが、お教えいただければ幸いである。

『俳諧古文庫』(天明年間、続燕石十種 第二巻)
 銘類
  丼鉢銘            羅文(馬琴の兄)
「近世丼といふ器出て、あまねくもてはやされる、□家諸州の高器にもあらず、貴となく賎となく、大用をなす、其かたち小なるは、二三寸の丸みを取、高サ四五寸を過ず、大たるは独楽居の摺り鉢に類し、底はほそみて、ひらきたる処は尺にも足れり、其色其模様ともにさまざまありて、朝夕には茶ぼけの饅頭を入られ、夕べには宴の滋味をかぞふ、又松魚の三盃酢抔入るゝ時は、北条どのの手料理も思ひ出らるゝよ、何により彼により、和談風雅の席にて、箸とらせ、口ぬらさせんとする時は、よくその場を取れる器、当時是を第一とせん、その銘に曰、
 三保ノ谷も石榴も鉢の名に呼ん」

『世のすがた』(天保四年、未刊随筆百種 第六巻)
「うなぎの蒲焼は天明のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初て売出す、其頃は飯を此方より持参せしと聞、近来はいつ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり」

『寛天見聞記』(18世紀末〜19世紀前半、燕石十種 第五巻)
「予幼少の頃は、酒の器は、鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを、いつの頃よりか、銚子は染付の陶器と成り、盃は猪口と変じ、酒は土器でなければ呑めぬなどゝいひ、盃あらひとて、丼に水を入、猪口数多浮めて詠め楽しみ、蕎麦屋の皿もりも丼となり、箸のふときは蕎麦屋の様なりと譬しも、いつしか細き杉箸を用ひ」

『守貞謾稿』(生業上)
「二八うどん、だし汁かけ、湯漬ともに下図の如き平皿に盛る。しっぽま、安平、鶏卵の類、平椀(漆器)にもる、椀は朱或は黒ぬり」[1]
「江戸は二八の蕎麦にも皿を用ひず、下図の如き外面朱ぬり内黒なり、底横木二本ありて竹簀をしき、其上にそばを盛る、是を盛りと云、盛そばの下略也、だし汁かけたるを上略して掛と云、かけは丼鉢に盛る、天ぷら 花巻 しっぽく あられ なんばん等皆丼鉢に盛る」[2]
「鰻飯 京坂で「まぶし」江戸にて「どんぶり」と云、鰻丼飯の略也」
「江戸 鰻飯百文と百四十文 二百文
 下図の如く蕣形の丼鉢に盛る、鉢底に熱飯を少をいれ、其上に小鰻首を去り、長さ三四寸の物を焼きたるを五六つ並べ、又熱飯をいれ其表に又右の小鰻を六七置く也、小鰻骨を去り首も除き尾は除かず、必ず引裂箸を添る也、此箸文政以来比より三都ともに始め用ふ。杉の角箸半を割りたり、食するに臨で裂分て用之、是再用せず浄きを証す也、然れども此箸亦箸所に返し丸箸に削ると云也、鰻飯のみに非ず三都諸食店往々用之、却て名ある貸食店には用ひず、是元より浄きが故也」[3]

『けんどん争ひ』(新燕石十種 第二巻)
滝沢馬琴「けんどん考釈詰」
「そば切の器物は、予が小児の頃は皿也、今は多くは平をも用ひ、小蒸篭、又丼鉢をも用れど、うどんのみ其うつはもの小箱の如くにしたるものにて、一ト度もうつりかはらず、五十年来同じ物也」
「盛り切り無情慳貪扱ひの義によりて、今の一膳飯、丼飯の類、馬かた、駕かき、ぼてふりの商人等が、をさをさ食ふ物ならば」

『我衣』(加藤曳尾庵、日本庶民生活史料集成 第十五巻)
「両国柳橋萬八楼にて今とし三月のころ、大酒大食の会あり。その連席で抜群の人の分を数えると、

  酒組
一、三升入盃にて三ばい              小田原町
  〆九升                      堺屋 忠蔵
 直に連衆に一礼して帰る。
一、三升入抔にて六ぱい半             芝 口
  〆壹斗九升五合                  鯉屋理兵衛
 そのまま倒れ、よほどの間休息し、茶碗にて水十七はい呑む。
一、五升入の丼にて壹ぱい半            小石川
  〆七升五合                    大坂屋喜左衛門
 すぐに帰る。聖堂前の土堤に倒れ、明七ツ過ぎ帰る。
一、五合入の盃にて十一杯             本所石原町
  〆五升五合                    みのや義兵衛」

(燕石十種第一巻にも『我衣』は収められているが、一部のためこの部分はない。大酒大食会の記録はいくつか見られるが、作りばなしのようだ。また、器の法量も 大きすぎる気がするが、当時の認識の一例としてのせた)

『年々留』(銭屋五兵衛、単行本)

「文政十二年 染付花鳥丼 桜屋吉右衛門  五七五匁
   十三年 古赤絵丼壱つ 少ひゝき有   一貫目ふり
       鬼手小丼壱つ        六五拾目ふり
          〆二つ     一貫六百五拾目
 天保 二年 青磁丼        一貫弐百廿三匁八分八厘
    三年 乾山大丼 菊文様       七拾匁
    十年 青呉洲丼          弐三八匁五分
    同  七宝丼           七六八匁八分
    同  三嶋丼           三七八匁八分
    同  井戸脇丼          弐五八匁五分」

『江戸愚俗徒然噺』(天保年間、未刊随筆百種 第七巻)
「茶屋女房、若ひ者、女中等いづれもなり形を略す、但し芸者は糸助に皿八といふ弐人なり、糸助すがゞきを弾ば、夫に合せて皿八がどんぶりの縁をたゝきて、拍子面白くはやして踊らすなり」

『江戸の夕栄』(鹿島萬兵衛、中公文庫)
「鰻丼の元祖は葺屋町の大野屋(大鉄)です。人形町尾張屋の川丼は三百文で、鰻が二タ側はいっており、飯もたんと盛ってありました。」

『絵本風俗往来』(菊池貴一郎、明治38年、東洋文庫)
「通町には夜明かしという、酒飯を商う露店が、大店の軒下を借用して、年中毎夜店をはり、夜明け前まで商いする。この店で皿・丼を洗う音が高く響く」

(次号に続く)


○第76回特別例会のお知らせ

 毎年、夏の特別例会の開催日は7月1日(土)、江戸東京博物館会議室(大会を行っている場所)で開催することになりました。奮ってのご参加をお待ちしております。

○会費(通信費)納入のお願い

 江戸遺跡研究会では2000年度の会費の納入をお願いいたします。第13回大会「江戸と国元」に参加され、会費を納入された方以外の方で、本年度および昨年度以前の未納入の方に、振り込み用紙を同封させていただきました。よろしくお願いいたします。なお、3カ年以上未納の方は退会とさせていただきますのでご了承ください。

◎新世話人のお知らせ

 江戸遺跡研究会は、研究・情報連絡などさらに充実した内容を目指して、新たに後藤宏樹(千代田区教育委員会)、栩木真(新宿区教委区委員会)に世話人をお願いいたしました。現在の世話人は以下の14名です。ご意見・情報などございましたらお気軽にお寄せください。

寺島 孝一(代表)東京大学埋蔵文化財調査室 
古泉 弘東京都教育庁
橋口 定志豊島区教育委員会
小川 望小平市教育委員会
梶原 勝文化財コム
後藤 宏樹千代田区教育委員会
小林 克江戸東京博物館
杉森 哲也放送大学
栩木 真新宿区教育委員会
成田 涼子豊島区教育委員会
成瀬 晃司東京大学埋蔵文化財調査室
堀内 秀樹東京大学埋蔵文化財調査室
松崎 亜砂子江戸東京博物館
宮崎 勝美東京大学史料編纂所


○関連イベント案内

「新発見遺跡速報展2000 新宿の遺跡」

新宿区遺跡調査研究発表会

「加賀殿再訪」展


第75回例会のご案内

日 時:1999年5月17日(水)18:30〜
演 題:千代田区岩本町2丁目遺跡の発掘成果
報 告:金子 智氏(千代田区教育委員会)
会 場:江戸東京博物館 第2学習室(大階段北側の通路を東に進み、駐車場の脇を直進し、左側の夜間入口より入る)
交 通:JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分
問合せ:江戸東京博物館 03-3626-9917(松崎)
    東京大学埋蔵文化財調査室03-5452-5103 (寺島・堀内・成瀬)
    江戸遺跡研究会ホームページ http://www.ao.jpn.org/edo/


【編集後記】第75号をお届けします。次々回特別例会は7月1日に開催することになりました。よろしくお願いいたします。本号より寺島の連載が始まりました。江戸時代の随筆などから考古学や発掘に関連するようなものを取り上げて紹介いたします。


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