江戸遺跡研究会会報 No.73

1999年11月10日発行
江戸遺跡研究会

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■江戸遺跡研究会第72回例会は、1999年9月22日午後6時30分より江戸東京博物館学習室にて行われ、梶原 勝氏より、以下の内容が報告されました。

豊島区巣鴨遺跡(仮称)藤和不動産マンション地区の調査
−近世巣鴨町の町屋と植木屋−

梶原 勝((有)文化財コム)

1.はじめに

 近世の武家地と町家である巣鴨遺跡の考古学的調査は、現在でも断続的に実施されており、その成果も本年3月末に刊行された『巣鴨町III』(豊島区教育委員会1999)で5冊を数える。報告された地区も武家地が中野組ビル地区[第1図37]、警視庁巣鴨警察署巣鴨駅前派出所地区[40]の2地区(同1994、同1997)、町家がつつじ苑地区[5](同1993・1996)、坂井右紀家地区[7]、鈴木和男家地区[11]、佐藤光家地区[12]、明生ハイム地区[20]、レールハイツ三橋・LAND建設事務所地区[21]、桜花苑ビル地区[22]、ランドマークビル地区[23]、安村敏信家地区[30](同1996)、桃花源ビル・友泉巣鴨ビル地区[28]、セザール巣鴨地区[1]、アーバンパレス地区[24](同1999)の12地区となっている。

 今回報告する調査区は、JR巣鴨駅の国道17号線を隔てた西側に位置し、江戸六地蔵で名高い真性寺の南東約100mにあたる(第1図*)。地番は豊島区巣鴨三丁目30−12である。

 近世においては本調査区の東側を江戸五街道のひとつである中山道が存在していたが、近代以降の度重なる道路の拡幅や17号線の新設により、当時の面影は本調査区の約100m北から北西に延びる地蔵通り(旧中山道)にかすかに残るのみである。この巣鴨町における旧中山道の拡幅に関しては、鈴木裕子が若干の考察を試みている(鈴木1999)。この鈴木の考察によると本調査区は、旧中山道から約9〜10m奥へ入ったところから南西へ展開していることになる。

 また、近世における巣鴨町は、「上組から上中組にかけてが両側町となっており、下中組・下組と中山道を挟んだ北側には武家屋敷が軒を連ねていた」(橋口1993)とあるように、中山道に面して町家と武家地が展開していた。本調査区は下中組にあたるが、先述したように道路の拡幅によって、中山道に面して立ち並んでいた町家は、現在の歩道の下ということになる。したがって橋口定志と水本和美が検討した巣鴨町の空間区分(橋口・水本1995)でいえば、「ウラ」と「オク」の一部が本調査区、国道17号線に面した歩道部分が「オモテ」の空間ではないかと思われる。今回の調査の目的には、このような問題の検証という側面が含まれている。

 以上のような問題だけではなく、発掘調査をすればどの調査も様々な問題が出現する。しかし今回の報告は、いまだ整理作業も進んでいない状況もあり、巣鴨町の空間構成の問題に焦点を絞り、調査区の状況について報告する。なお、今回の調査の期間は1999年3月16日から6月1日までで、調査面積は約760m2であった。なお、聞き取り調査によると本調査区は、近世の植木屋齊田家の敷地の一部にあたる。

2.遺構とその展開状況(第2図

 検出された遺構は、植栽痕、井戸、土坑、地下室、(仮称)長方形土坑、溝状遺構、小穴(ピット)などが主である。遺構および遺物包含層などの遺存状況は、A〜Fラインはコンクリート建物の基礎杭が中央を南北に打たれていたことと、コンクリート片や現代の陶磁器・ガラス片等が混じる盛土層がこの区域全面を覆っていたことで、きわめて遺存状況の悪い様相かと思われたが、遺構自体が深かったことと、近世の整地層あるいは遺物包含層が残っていたために、以外に良好な状態を保っていた。ただ地山の状態はソフトロームが削平されており、大部分の遺構確認はハードローム面となっていた。このことから、近世において本調査区とその周辺で大規模な土地造成が行なわれていたと推測できる。

 Gライン以南は7・8ラインが既存の建物の基礎で若干削平されていたが、ほかはおおむねソフトロームの上に漸移層ないしは黒色土が存在し、きわめて遺存状態の良好な土層と遺構が展開していた。このことはA〜Fラインとは異なり、近世から近代にかけて地山まで達するような大きな土地改変はなかったものと考えられる。

 このような状況を踏まえて、以下遺構の種類ごとに概略を示す。

植栽痕(◎) いくつかの類型に分類できそうだが、今までのところ手つかずである。多くは平面形が円形で、中心部の地山が盛り上がったように掘り残されたものである。
 分布をみるとA〜Fラインでは6ライン以東に集中する。この区域の植栽痕は67号遺構を除き比較的小規模なものが多い。67号遺構はやや大型の植栽痕であるが、大量の遺物が出土しているので、ゴミ穴に転用されたとみなされる。
 Gライン以南では大型の植栽痕が多く、しかもG5区、H5区、1区、J6区、K5区に著しい重複関係をもつ植栽痕群がみられる。

井戸(●) 円筒形の素掘りの井戸が4基検出されている。A5区とD4区の井戸(68号・16号遺構)は、大谷石の井戸枠が施してあったことから近代の所産と考えられ、B4区とG2区の井戸(27号・131号遺構)は出土遺物から近世の所産と考えられる。また、聞き取り調査によるとH7区あたりに20世紀前半までの井戸が存在していたそうである。そしてライン以南に井戸はみられない。

土坑 出土遺物からみると近世のもの(▲)と、近代のもの(△)とがある。これらの土坑は形態も様々で、出土遺物のきわめて多いものと少ないもの、特徴的な覆土をもつものなど様々な要素が絡んでいる。正確ではないが大まかな見方では、遺物の多い土坑、いわゆるゴミ穴はA〜Fラインの5ライン以西に集中する。H・・J1区の調査区外に延びる3基の土坑は、一見地下室かとも思われる大型の土坑も含まれているが、出土遺物が近代の所産であることから土坑(ゴミ穴)とした。こうしてみると、出土遺物の多い近世の土坑はA〜Fラインの5ライン、つまり旧中山道に近い区域に顕著で、Gライン以南はほとんどみられないといえる。

地下室(■) 大型のもの、小型のもの、天井部の有るもの、無いものなどいくつかの類型に分類できそうである。総じて大型のものはライン以南に多く、天井部は無い。ただ出土遺物は多く、K2区の93号遺構は整理箱にして約10箱も出土している。天井部の有るものは、B4区の147号遺構、G5区の154号遺構、6区の53号遺構、J1区の98号遺構などがある。その中でも53号遺構は人が一人やっと入れるくらいの地下室だが、天井部のほかに階段も作り出されている方形の地下室である。また、53号にしても154号遺構にしても天井部と底面の高さは、人が入ることも困難なほど低い。

(仮称)長方形土坑(□) H・2・3区に大部分が集中する。長さ約1〜2m、幅約50〜60cm、確認面からの深さ約30〜50cmの長方形を呈する土坑で、長軸が中山道と平行している。いわゆる「イモ穴」と呼ばれる農業関連遺構にも似るが、やや規模が小さく用途は不明としておく。

溝状遺構(■■■) 掘りあがりが溝のような形状を呈している遺構だが、・J4・5区の2基の溝状遺構(123号・181号遺構)は底面の凹凸が著しく、いわゆる生垣痕の形状を呈している。G3〜5区の149号遺構は近・現代の下水土管埋設溝であり、その北側(G2〜4区)の157号遺構は、浅い溝状遺構である。双方とも掘り込みが浅いため検出はできなかったが、さらに先へ延びるものと考えられる。157号遺構の時期は今のところ不明である。146号遺構は深さ約1m近くある断面箱形の遺構だが、調査区外に延びているため溝と考えてよいのか、長方形の大型遺構なのか今のところ不明である。

小穴(ピット) 今回の第2図では小穴すべてを載せることが不可能であったので割愛したが、大まかな傾向のみを述べる。
 Gライン以北での小穴はほとんどみられない。溝状遺構である73号遺構の東縁に接するようにいくつか並んでいるものが大部分である。
 Gライン以南、特にHライン以南ではほとんど全面に展開している。ただしすべて小規模なもので、並びも柱筋が通るところも有るが、建物が建つような並びは今のところ確認されていない。

エナ皿・徳利埋設遺構(☆、写真図版 H4・5区にエナ皿と考えられる大型のカワラケと徳利が複数、隣接あるいは重なって出土した地点がある。これらを総称して110号遺構とした。それぞれの遺物にはカワラケ・徳利の別なく、通し番号(1〜18)を付し、さらに上下合わせ口になって出土したカワラケについては、「7上」とか「7下」といった区別を施した。

 配置はほぼ南北に列を形成しているものが3列あり、東側の列が北からカワラケ(6上・下)、灰釉一升徳利(16)、カワラケ(7上・下)、ぺこかん徳利(17)、カワラケ(8上・下)と並び、さらに8の直下から備前徳利(18)が出土している。西隣の列は北からカワラケ(4、下皿のみ検出)、ぺこかん徳利(14)、カワラケ(12、下皿のみ検出)と並び、さらにまた12の直下から鉄絵文字で「スガモ/伊勢孫」と書かれた灰釉一升徳利(15)が出土した。この列の北やや西に北から灰釉一升徳利(13)、カワラケ(2上・下)、灰釉一升徳利(3)が並んでいる。13の徳利は釘書「久十」が点刻で施されている。2のカワラケの西隣にはカワラケ(9、下皿のみ検出)が、その南西にはカワラケ(11、下皿のみ検出)が位置し、さらに9の北西にやや離れてカワラケ(1上・下)が、その南西にカワラケ(10上・下)が位置している。なお、6・7・8・10の上皿には墨が据えられていた。また、徳利はすべて一升徳利である。

 このようなカワラケと徳利の出土状況は、港区北新網町遺跡(町屋)・同区相模荻野山中藩大久保家屋敷跡遺跡・新宿区市ヶ谷仲之町西遺跡などでもみられ、エナ皿と、乳が良く出るようにと産湯を入れた徳利であろうと言われている(大八木謙司氏のご教示による)。

3.主な遺物とその出土状況

 現在、整理作業が始まったばかりであるため正確なことは言えない。ここで述べることは現場で観察した印象であるとご理解いただきたい。

 まずゴミ穴と考えられる土坑が多く検出されたA〜Fラインをみてみると、近世のみに限って言えば18世紀の中葉〜幕末までの遺物が連綿とみられる。その中でも大量の遺物が出土した67号遺構は、植栽痕をごみ穴に転用したものと考えられるが、「くらわんか碗」と呼ばれる肥前産厚手碗や瀬戸・美濃産せんじ碗のほかに、土師質の台付燈火受付皿などが多くみられる。台付燈火受付皿の量比の問題はあるが遺物の全体的な様相では、同じ巣鴨遺跡ですでに報告されているつつじ苑地区20号遺構(豊島区教育委員会1996)に近似した様相を示している。したがって1740年代〜1750年代の遺物群ということになろう。この遺構の遺物群が、今回の調査で検出された遺構一括遺物の中で最も古い様相を呈している。

 また、幕末の遺物群では35号遺構がある。この遺構からは施釉土器あるいは軟質陶器かと思われる材質で、男性用の便器と考えられる遺物が、篆書文を施した瀬戸・美濃産端反碗を伴い出土している。この遺構にはコバルト絵付けを施した製品は1点も無い。またこの遺構からはワインボトル片や何の製品かは不明だが、ガラスの破片も出土している。

 一方、大型の植栽痕の多かったHライン以南では、全体として植木鉢の出土が多い。ただ大量の遺物が出土したのは、天井の無い大型の地下室からで、植栽痕などからは多くの遺物は出土していない。

 多くの遺物が出土した遺構は、90号遺構・93号遺構などがあるが、これらは大量の植木鉢のほかに磁器や陶器の碗や燈火具類、徳利など生活に密着した遺物も出土している。年代としては90号遺構が端反碗や燗徳利もみられることから19世紀前半、93号遺構が肥前産厚手碗・筒茶碗、江戸在地系の土師質燈火具類が多く、広東碗・施釉土器の燈火具類が無いことから、1760年代が下限と思われる(註1)。

 以上、現場で強く印象を受けた遺構についてのみ紹介した。

4.成果と問題点

 これまで述べてきたことでは、とても「はじめに」で述べたような課題に答えられない。すべて今後の課題である。ただ現場で受けた印象や現在までの整理状況から見通しを若干述べておこう。

 土地利用のあり方は、Gラインあたりを境に大きく異なる。すなわちゴミ穴と思われる土坑がいくつも重複する旧中山道寄りの区域があり、そして植栽痕と大型の地下室が多く展開するGラインより以南の区域がある。また旧中山道寄りの区域でも73号遺構とした溝状遺構を境としてゴミ穴と植栽痕の分布が異なっている。

 このような遺構の展開状況が、近世の巣鴨町においてどのような意味をもつのだろうか。幸いこの問題については示唆的な資料がある。

 第3図は門脇洋子が紹介した島村八十八作『安政年代駒込富士神社周辺之図、絵図・図説』(註2)の一部で、この『絵図・図説』によって、駒込付近の本郷通り沿いに展開する町家と植木屋の関係が読み取れる(門脇1998)。さらにこれを町家と植木屋の配置関係のみを取り上げ、模式化したものが第4図である(梶原1999)。これらの図から読み取れることは、通りに面したところには町家が軒を連ねている。この町家の建物の裏には庭があり、さらに奥には植木屋の敷地がある。ただし所々植木屋の門が通りに面したところにも存在する。

 こういった町家と植木屋の関係を概念的に捉えると、町家の建物が「オモテ」、庭が「ウラ」、さらに奥まった植木屋の空間が「オク」と捉えることができよう。このことを踏まえて第2図と第4図をみると、本調査区は第4図のA・B・Cいずれかの土地利用が推測される。

 今回の報告ではここまでが限界だが、さらに問題となってくるのが境の問題である。第3図や第4図ではそれぞれの土地保有者との境にはっきりとした線が描かれている。これが具体的に当時どのような施設が存在していたのか、あるいは存在していなかったのか。存在していたとしても考古学的に検出されるようなものだったのか、といった問題である。事実本調査区の場合、先述したように遺構の分布には特徴がみられるものの、明瞭な境を成す区画施設や仕切り施設は検出されなかった。73号遺構にはその性格があるのかもしれないが、長く続いていないのはなぜだろうか。ともかく本調査区は、町家の「ウラ」空間と「オク」の植木屋空間に漠然とは区分されようが、具体的には現段階ではなぞである。今後は遺構の性格をさらに吟味し、その分布からもう一度土地利用を考えてみたい。

5.おわりに

 一つの調査区を発掘すると、多くの資料が得られ様々な問題点が出現する。今回の調査も上記のような問題点だけではなく、例えば、植木屋や町家に住む人々の生活や生業の問題、特に67号遺構から多く出土した土師質の台付燈火受付皿の意味、エナ皿と徳利が同時に埋設されているような遺構の問題など数え上げたら切りが無いほどである。今後調査スタッフ一同、できるだけ多くの問題に対面し、その解決の方法を探っていく所存である。

【註】

(1) 93号遺構の覆土最上層からは施釉土器の燈火受付皿の破片も出土しているが、受部の高さが低いことから主要遺物の年代とは異なり、後世の混入と考えられる。

(2) この『絵図・図説』は文京ふるさと歴史館所蔵。解説は門脇の論考(門脇1998)を参照されたい。

【引用・参考文献】

梶原 勝 1999「第V章 2節 出土遺物からみた桃花源ビル・友泉巣鴨ビル地区の諸問題」『巣鴨町III』豊島区教育委員会
門脇洋子 1998「第IV章 2.伝中の植木屋について」『伝中・上富士前II』豊島区教育委員会
鈴木裕子 1999「第V章 1節 桃花源ビル・友泉巣鴨ビル地区周辺の旧中山道の拡幅について」『巣鴨町 III』豊島区教育委員会
豊島区教育委員会 1993『巣鴨町 I
         1994『巣鴨 I
         1996『巣鴨町 II
         1997『巣鴨 II
         1999『巣鴨町 III
橋口定志 1993「II.−1.遺跡の位置と歴史的環境」『巣鴨町 I』豊島区教育委員会
橋口定志・水本和美 1995「江戸周縁の町・巣鴨」『季刊考古学』54 雄山閣



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論 考

○佐藤浩司1999.7「小倉城下町・寺院の軒平瓦」『研究紀要』第13号、北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室
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第13回大会のご案内

テーマ:『江戸と国元』
日 時:2000(平成12)年1月29日(土)13:00〜17:00
  1月30日(日)10:00〜17:00
場 所:江戸東京博物館 会議室
発表内容(予定)
「尾張藩江戸藩邸」「徳島城下町」
「名古屋城下町」「瓦からみた江戸と国元」
「伊達藩江戸藩邸」「土器からみた江戸と国元」
「仙台城下町」「史料からみた江戸と国元」
「金沢城下町」

*当研究会では、小さいお子さまがいらっしゃる大会参加希望者のために、プロのベビーシッターによる託児委託を準備しております。託児御希望の方は、下記にご連絡下さい。

 託児費用:1日2,000円・半日1,000円(子供1人につき)
 申し込み:東京大学埋蔵文化財調査室(堀内)
      電話:03-5452-5103
 申込期限:12月15日



第73回例会のご案内

日 時:1999年11月24日(水)18:30〜20:30頃
演 題:東京大学本郷構内の遺跡 総合研究棟地点(文・経・教育・社研)の調査
報 告:追川 吉生氏(東京大学埋蔵文化財調査室)
会 場:江戸東京博物館 第2学習室(大階段北側の通路を東に進み、駐車場の脇を直進し、左側の夜間入口より入る)
交 通:JR総武線両国駅西口改札 徒歩3分
問合せ:江戸東京博物館 03-3626-9917(松崎)
東京大学埋蔵文化財調査室〔新電話番号〕03-5452-5103(寺島・堀内・成瀬)

【編集後記】第73号をお届けします。11月の例会は、第4水曜日です。お間違えのないようお願いします。